ウム・カイス遺跡
Umm Qais, 2001ヨルダン北西部、イスラエルとの国境が目前という丘の上にウム・カイスの町があります。
ウム・カイスは旧約聖書の時代、ガダラ(要塞の意)と呼ばれていました。紀元前63年にはローマ帝国の支配下に組み込まれ、デカポリスの1つとして発展していきました。
新約聖書にはこの町の記述があり、「イエス・キリストがガダラ地方で2人の男から悪霊を追い出し、その悪霊を豚の群れに乗り移らせました。そしてその豚の群れはガリラヤ湖になだれ込んで死んでしまいました。(マタMatthew 8:28~34)」と書いてあります。
ガダラが一番の繁栄を迎えたのは、1世紀の後半からで、パックス・ロマーナ(ローマ支配による平和)のおかげで交易の範囲が広がり、町では建物の建設がどんどん進められていきました。現在残る遺構のほとんどが2世紀に建てられたものです。この頃には雄弁家、芸術家、詩人、哲学者たちがガダラに集まり活躍したそうです。
7世紀にはウマイヤ朝の支配下に入り、国境地区の意に由来するウム・カイスと名前が変えられました。その後、ヨルダン北部にあるペラ遺跡、ウム・ジマル遺跡と同じく747年の地震によって崩壊し、町が衰退していったとされています。
現在では町の外れのオリーブの木に囲まれた丘に比較的大きなローマ時代の都市遺跡として残っています。高台にあるので、遺跡からは北西にイスラエルのガリラヤ湖(ティベリアス湖)、ヤルムーク峡谷、そしてすぐ北にゴラン高原とスケールのでかい景色を見ることが出来ます。
遺跡自体は黒い玄武岩でできたローマ劇場に、道沿いに建ち並ぶ白と黒のコントラストが美しいコリント式円柱、そしてバジリカ様式の教会などが残り、小さな博物館には大理石製の運命の女神テュケー像や幾つかのモザイク画が展示されています。
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* ヨルダン情景素写 *
* 感想など *この地域にある遺跡の中では珍しく、ウム・カイスの遺跡へはそう苦労せずに行く事が出来ました。辺境の地にありながら近くに町があり、比較的バスの本数が多かったおかげです。
ここは眺めがよかったのが一番印象に残っています。北西にガリラヤ湖(ティベリアス湖)、北はヤルムーク峡谷があり、その向こうはゴラン高原と隣国を広く見渡せます。その分、奥は兵隊の駐屯地となっていて、遺跡内にも兵隊が多く、見学中にも何度か話しかけられました。ちょっと落ち着かなかったです。
遺跡の方は今後に期待といったところでした。見た感じパーツは沢山ありそうだし、修復も日本のチームも参加し、比較的真面目に取り組んでいるようなので、何年か後にはヨルダンを代表する遺跡の一つに数えられているかもしれません。
ウム・カイス遺跡
Umm Qais, 2001 -風の旅人- (2019年12月更新)