世界情景素写
ヨルダンの情景#12

ペトラ遺跡

Ruins of Petra, 1996

ヨルダンの南部、ほとんど人が入っていけないような岩山の中に、岩山を彫り込んで造られたペトラ遺跡があります。ここはかつてナバテア(ナバタイ)王国の首都で、ぺトラの意味はギリシャ語の岩=砂岩の山脈に起因します。

現在このペトラの遺跡には800ものモニュメントが、広大かつ荒涼とした自然の中に点在していて、朽ち果てつつも残っている遺跡の多くは墳墓や祭礼を行った神殿や祭壇です。

最盛時には2万5000人もの人口を擁していたと言われていますが、当時暮らしていた住民の家屋は見つけることができません。大部分の人々は洞穴に住んでいたり、日干し煉瓦造りの簡素な家に住んでいたので、地震と風化で消えてしまいました。そのため、ペトラは死者の町とも言われています。

ペトラを造ったとされるのはナバテア(ナバタイ)人で、紀元前6世紀頃アラビア半島から移り住んできました。それまでこの地は旧約聖書にも登場するエドム人が暮らしていたのですが、イスラエルとの戦いに敗れ、ナバテア人がやって来た頃には、衰退していたそうです。

移住してきたナバテア人はペトラなどに町を造り、貿易によって富をなしていった。ぺトラの発展した理由は、シバの女王の国(現イエメン)などの南アラブからシリア、エジプト、ローマなどに抜ける隊商路の要所に位置していた事です。

南アラビア半島の没薬と乳香はとりわけ重要な貿易品でした。香は当時宗教儀式で必ず使われ、アラビア半島と東アフリカの一部でしか採れなかったのもあり、アラビア隊商路が発達し、ぺトラ、そしてナバテア人の町は栄えていきました。

徐々に力をつけたナバテア人は紀元前3世紀頃に、ペトラを中心としたナバテア王国を誕生させました。ナバテア王国はエジプト、ギリシャの影響を受けながら、シリア方面に徐々に領土を広げていきます。紀元前1世紀の初頭の数十年間はアラビアの北西地域一帯を支配し、ペトラの人口も最盛期には2万5千人にも及んだそうです。

紀元前300年ごろの初期の墓や神殿には、エジプトやアッシリアの影響を見ることができ、ギリシャやローマの影響が中東に広がるにつれて、ナバテア人はそれらを吸収して、独自のスタイルを作り出していたようです。

紀元を挟んだ両世紀間に最盛期をむかえたペトラでしたが、近隣諸国との戦争が多くなるとともに、国力が衰えていきました。

そういった中、ローマ帝国は紀元前63世紀の攻撃をはじめ、幾度かペトラを攻撃し、紀元106年には大きな抵抗もなくペトラを占領し、ナバテア王国は滅びました。

ローマ支配下でも繁栄は続き、ローマ劇場や列柱通りなどのローマ風の建物が建てられていきました。しかしながら、キリスト教が広まるとともに、本来のナバテア人の文化は失われていきました。4世紀になってビザンチン支配下になると、「アーン・トゥーム」は教会にされ、ペトラには司教座が置かれました。

ぺトラの衰退は、海路での貿易ルートが発展していったことが大きく、海上ルートで大量の輸送が行われるようになるとペトラの交通要所的重要度が下がってしまいました。ローマ帝国が新しく整備した隊商路から外れてしまったことも大きく、大地震を契機に歴史から忘れ去られていきます。

残っている記録は12世紀の十字軍時代に交易拠点として、要塞が新たに築かれていること。13世紀にバイバルスがこの地を通過したときに、ベドウィンが暮らす小さな村になっていたこと。その後はどうなったかは、分かっていない。再びペトラが歴史に登場するのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されてからです。

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* ヨルダン情景素写 *

ワディ・ムサからペトラへの道の写真
ワディ・ムサからペトラへの道

拠点となるワディ・ムサの町から遺跡の入り口まで結構坂を下ります。
帰りは地獄の坂になります。
(At Wadi Mousa, 25 Aug. 1996)

シク

ペトラの遺跡を入場すると、まず「シク」と呼ばれる狭く切り立った崖の間の道を1.5kmほど進まなければなりません。

「シク」とはアラビア語で大地の狭間の意味です。この地方の伝説ではモーゼが杖を振って、岩を打った所がシクになったと伝えられています。

このシクはワディ・ムーサから旧ぺトラ市外に続く唯一の道となっています。もちろん裏道はいくつかありますが、ひどい崖道なので、非常用の抜け道と言ったところでしょうか。その為今日でも、基本的に徒歩か、馬でしかペトラへ行く事ができないのです。

モーゼが杖を打って形成されたと言われるシクですが、実際はぺトラを取り囲んでいる赤色、褐色、紫色の砂岩が、水の侵食によって削られてできた地溝となります。

シク ペトラ遺跡の写真
シク

狭く両脇に崖がそびえています。
日の差し込まない時間帯は薄暗いです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

シクの赤い壁 ペトラ遺跡の写真
シクの赤い壁

この地域らしく赤い壁の場所もあります。
光が差す時間だと幻想的な雰囲気になるようです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

シクの石畳 ペトラ遺跡の写真
シクの石畳

昔の石畳が残る場所もあります。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

約1.5kmのシクは左右に切り立った崖が続き、道は曲がりくねっていて、場所によっては幅が4mほどしかありません。まさに岩の裂け目を歩いている感じです。ペトラをペトラらしくしている道です。

崖の高さも奥に進むほど高くなり出口付近では100m近くなります。太陽の光もなかなか差し込まなく、朝早く遺跡に向かう場合は薄暗い中を歩かなければなりません。

1.5kmは少し長いけど、このシクを歩けばペトラが天然の要害の地に栄えていたことがよくわかるし、この独特な道を頑張って歩くことが冒険心を高めてくれます。

シクの途中にはいくつか見所があります。まずはシクの入り口の手前にナバテア人が造ったダムがあり、入り口には門(アーチ)が造られていた跡があります。途中には、岩壁に掘られた碑文、岩壁に造られた祭壇、記念碑、ダムから水を町に送っていたパイプの跡や、ローマ時代に馬車用に舗装された石畳の道路跡も所々に残っています。

シクから見るエル・ハズネ1 ペトラ遺跡の写真
シクから見るエル・ハズネ1

シクを歩き続け、シクにも飽きたころ、
ちらっとエル・ハズネが見えた瞬間、とても感動しました。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

シクから見るエル・ハズネ2 ペトラ遺跡の写真
シクから見るエル・ハズネ2

近づくほど感動が大きくなっていきます。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エル・ハズネ

人に、「ヨルダンにある世界遺産のぺトラ遺跡に行ってきたよ」と言っても、あまり反応がよくないのですが、「映画インディー・ジョーンズの舞台になった岩の神殿」と言えば、興味をもって話を聞いてくれることでしょう。ペトラを有名にしたのは間違いなくインディージョーンズの映画です。

シクを歩く事約20分、宿から考えるともう1時間近く歩いたんじゃないかと思う頃、急に目の前が開けて、ぺトラのシンボル的存在のエル・カズネが現れます。そろそろ疲れたと狭いシクを歩くのに嫌気をさしていた頃に到着するので、その感動も並々ではありません。本当に良く出来た演出です。

このエル・ハズネは赤色の崖を削って造った遺構で、高さ43m、幅30mと、前に立つと見上げるような大きさです。観光地に対して人は過大な期待を込めて訪れるので、実物を見て思ったよりも小さいといった感想が多いですが、このエル・ハズネは期待を裏切らない素晴らしさと大きさを兼ね備えています。

ハズネはアラビア語で宝物庫の意味で、宝物殿とも呼ばれています。かつては多くの財宝と呼べる物が保管されていたのでしょうか。隠された秘宝。なんて言葉がふさわしく感じるのは、やはりインディー・ジョーンズの映画の影響です。

映画では、エル・ハズネの中は広い洞窟のようになっていて、地底世界のような光景が広がっていたのですが、実際は勢い良く走って中に入ると、ごつんと壁にぶつかるぐらい狭い部屋があるだけです。豪邸に遊びに行ったつもりが、四畳半の下宿部屋に通された気分となるでしょうか。これには少しがっかりすると思います。

エル・ハズネ ペトラ遺跡の写真
エル・ハズネ

そのまんまインディージョーンズの映画に出てくる姿をしています。
高さ43m、幅30mあるので見上げるような大きさです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エル・ハズネには見事な装飾が施されていて、柱やニッチ(壁がん)や彫像に、様々な文化の影響が見られます。造られたのは紀元25年ごろ、アレタス4世によってだと言われていますが、真偽の程ははっきりしていないそうです。

細かく見ていくと、まずは一階層の左右にある二対の像。日本でいうなら仁王象に当たるのでしょうか。これは馬に乗るアッシリアの死神だそうです。それから入り口部分には、生贄にされた動物の血を注いだとされる丸いくぼみがあります。

コリント式の円柱に支えられるようにしてある屋根には、儀式に使うワイングラスやライオンの像が彫刻されています。

二階部分。真中の像は古代エジプトの女神イシスの像。そしてイシスの像の上の丸屋根は太陽を表し、その屋根のてっぺんには脚付きの大壺が彫刻されていたのですが、これは地元の人がライフルで射撃して壊れてしまったそうです。

イシス像の左右にある二対の像はギリシャ神話に出てくるアマゾネスの像です。その上の屋根の部分には鷲の像が彫刻されています。イシスとアマゾネスの像の間の奥まった部分にある彫刻は資料がなく不明。その他、遺構の左右にある上下に点々と沢山彫られている窪みは、足場の跡だそうです。

このエル・ハズネは「宝物庫」と名付けられていますが、実際は何に使われていたのか、はっきりと解明されていないようです。

宝物庫と呼ばれる所以は、海賊がこの建物の中に財宝を隠したとか、建物のてっぺんにすえつけられた脚付きの大壺に、エジプトのファラオの宝が隠されているとかといった伝説によっているそうです。事実、当局によって正式に禁止されるまで、ずいぶんと長い間、地元のベドウィンはこの大壺を銃で狙い撃って、あわよくば宝を得ようとしていたみたいです。

この遺構の用途が宝物庫ではないとすると、考えられているのは、祭事のときに生贄を捧げた神殿説。死の神の彫刻ばかりな事から葬祭殿説。シクを抜けてきて、いわゆるペトラの玄関口にあることから迎賓館説など推測されています。

神殿の上部 エル・ハズネ ペトラ遺跡の写真
神殿の上部

結構深く掘ってあり、立体感があります。
真中の像は古代エジプトの女神イシスの像で、
像の上の丸屋根は太陽を表しています。
イシス像の左右にある二対の像はギリシャ神話に出てくるアマゾネスの像です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ちょっとアドバイスすると、ここの写真はなかなか綺麗に撮れません。狭い崖と崖の間にあるので光の加減が難しいからです。ちょうど昼前ぐらいが、太陽が斜めに全体を照らし、岩の赤が強調されて綺麗に撮れるみたいです。

たいていの観光客は朝早く行き、夕方ここを通るので、なかなか綺麗な絵葉書のような写真が撮れないのが実情です。時期にもよりますが、午前中の9時から11時ぐらいの間がベストの事です。

シクの出口 ペトラ遺跡の写真
シクの出口

エル・ハズネから見たシクの出口です。
まさに岩の裂け目といった感じです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

赤い壁 ペトラ遺跡の写真
赤い壁

エル・ハズネの前の岩壁がペトラの中でも一番赤いと言われています。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ペトラの岩 ペトラ遺跡の写真
ペトラの岩

ペトラの砂岩は赤、褐色、紫、ピンク、黄色、白などと鮮やかで、
中には天然の色とは思えないほどきれいな模様をしているものもあります。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エル・ハズネからその先の墳墓群にかけての岩肌は綺麗な赤色をしています。そしてもっと奥に行けば、縞模様をしていたり、ピンク、赤、青、白などと天然の色とは思えないほど鮮やかな岩を見る事ができます。

英国のヴィクトリア朝の学者ジョン・バーゴンはペトラを「ばら色の都市」と形容し、あるイタリア人の料理人は「すべてがチョコレートとハムとカレー粉とサーモンでできている場所」と形容したそうです。

この成因理由は、砂岩にしみ込んだ地下水の酸化作用で褐鉄鉱が生じたものや、数億年前に浅い海底に堆積した砂が層を作り隆起したものなど様々なようです。それが大地の変化や雨風による浸食でむき出しになったり、地層のずれなどで波打ったりしてきれいな模様を生じ、天然のキャンパスとなっています。

ファサードの道の巨大な墓 ペトラ遺跡の写真
ファサードの道の巨大な墓

エル・ハズネほど見事さはないものの、
崖に巨大な神殿の形をした墓が彫られている様子は圧巻です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エル・ハズネを過ぎると、アフターシクともファサードの道とも呼ばれる広い道を歩きます。両側の岩壁には神殿の形をしたものや簡素な洞窟のような墳墓が数多くあり、大きさも様々。もちろん身分や階級の違いだと言われています。

崖の墳墓 ペトラ遺跡の写真
崖の墳墓

崖には多くの墳墓が彫られています。
2階建てのようになっている部分も多いです。
スペースがなくなったからでしょうか。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

墳墓群 ペトラ遺跡の写真
墳墓群

この辺りは集合住宅のように簡素な感じの墳墓が沢山並んでいます。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ファサードの道 ペトラ遺跡の写真
ファサードの道

エル・ハズネの感動がここでもといった感じで、
崖に墳墓が並ぶ様子や赤い岩の雰囲気が素敵な場所です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ローマ劇場 ペトラ遺跡の写真
ローマ劇場

岩山の斜面の一部を掘りぬいて造ったようで、壁にへばりつくような感じの劇場です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

墳墓群を進んだ先の少し広い場所にローマ劇場があります。紀元1世紀に造られたもので、33列の座席があり、約3千人収容できました。

この劇場はローマ式の劇場ですが、それ以前からあったとされ、ローマ支配後に改修されたようです。観客席の一部が岩を掘りぬいて作られているのが面白く感じます。

上から見た墳墓 ペトラ遺跡の写真
上から見た墳墓

上から見ると風化や浸食で結構崩れているのが分かります。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

崖の上への道 ペトラ遺跡の写真
崖の上への道

犠牲祭壇へ向かうために岩の間を登っていきました。
登り道もシクのようです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

さらに上から見た墳墓群 ペトラ遺跡の写真
さらに上から見た墳墓群

この高さから見ると立体感がなくなり、岩山の一部に見えてしまいます。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

犠牲祭壇 ペトラ遺跡の写真
犠牲祭壇

丘の上の眺めのいい場所にありました。
ナバタイ人の宗教慣例では、岩=神々の住まいと考えていたので、
岩を崇め、血の生贄を神に捧げていたそうです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ペトラ遺跡の写真
2本のオベリスク

オベリスクの前には住居がありました。
岩山の中にたくましく生きている人もいるようです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

荒涼とした大地 ペトラ遺跡の写真
荒涼とした大地

周囲はやはり同じような岩山ばかりの風景です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ペトラ遺跡の中心部 ペトラ遺跡の写真
ペトラ遺跡の中心部

メイン通りとなっているコロネード通りが通る場所です。
かつてはここに多くの建物が並んでいたのでしょう。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

王家の墓所 ペトラ遺跡の写真
王家の墓所

一旦崖から下って平地へ。
見学は高い崖を登り下りをしなければならないので大変です。
円形劇場の先、岩壁を利用して造った王族、貴族の墓が並んでいます。
エル・ハズネに似たような遺構もあります。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

コロネード通り ペトラ遺跡の写真
コロネード通り

メイン通りで、かつては柱が並んでいました。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ペトラの中心部をコロネード通りが通っています。ローマ支配後にローマ人が整備したもので、全長約150m、幅6m、通りには柱が並び、敷石が綺麗に敷きつめられていました。

通り沿いには神殿をはじめ多くの建物が並び、途中にあるローマ式の噴水、ニンフェウムでは水を提供していました。

カスル・アル・ビント ペトラ遺跡の写真
カスル・アル・ビント

岩を掘って造った建物が多いペトラにあって、珍しく建物らしい遺構です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

コロネード通りの突き当りはテメノスの聖域になります。その中心は「カスル・エル・ビント(ファラオの娘の城)」という神殿になります。

紀元前1世紀頃のもので、本来はドゥサレスの神を祀った神殿になるようですが、どういうわけかこんな名前がついてしまいました。

建物の正面にある6本の大理石の円柱は23mの硬さがあったようです。外壁に幾何学模様の彫刻があるのも特徴です。

ライオン トリクリニウム ペトラ遺跡の写真
ライオン トリクリニウム
Lion Triclinium

特徴的な鍵穴のような入り口を持つ建物です。
入り口のところにライオンのレリーフがあることかライオンの名がついています。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エドディルへの道 ペトラ遺跡の写真
エド・ディルへの道

奥にあるエドディルへの道です。
また一段と険しい登り道で、足が疲れます。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エド・ディル

列柱通りから長い階段を上っていくと、崖の頂上付近にエド・ディルと呼ばれている修道院があります。高さ42m、幅46mと大きく、ペトラで最大の建物となります。建物の大きさ、そして美しさからエル・ハズネとともにペトラのハイライトの一つとなっています。

このエド・ディルは紀元1世紀に造られたとされています。外観の見事さとは対照的に建物内部は巨大な部屋が一つあるだけです。

エド・ディルの意味は修道院なのですが、これはいまいちはっきりとしていません。外観に神々の彫刻がなされていないのも謎を深めています。

文献によっては、キリスト教が浸透してから造られたぺトラで唯一の祭壇を持つ建物で、神殿として使用されたので修道院と呼ばれているとあったり、はたまたナバテア人がドゥシュラ神を祀る為に造り、後年キリスト教が浸透し、4世紀にここで修行僧が修行したので内部の壁に十字架が彫られているといった意見もあります。

大規模な座席の跡が建物の前で発掘されていることから、この建物の前で何かしらの祭礼とか、集会が開かれていたのは確かのようです。

ちなみに後ろの岩山に登ることが出来ます。まだ足に余力がある人は登ってみるといいでしょう。眺めがいいはずです。

エド・ディル ペトラ遺跡の写真
エド・ディル

彫りが深く、とてもしっかりとした輪郭で残っています。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エド・ディル2 ペトラ遺跡の写真
エド・ディル2

こうしてみると2階部分は上にのせた感じがします。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

エド・ディルの模様 ペトラ遺跡の写真
エド・ディルの模様

一階部分はマーブル状の模様が美しいです。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

黒々とした大地 ペトラ遺跡の写真
黒々とした大地

エド・ディルの先は黒々とした大地が続いていました。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

ヤギとの遭遇 ペトラ遺跡の写真
ヤギとの遭遇

帰る途中、狭い通路でばったりと出会ってしまいました。
お互い固まった瞬間です。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

列柱通りと王宮墳墓 ペトラ遺跡の写真
列柱通りと王宮墳墓

観光客がほとんどいなく、ラクダも暇そうでした。
(At Petra Ruins, 25 Aug. 1996)

* 感想など *

ぺトラは今まで行った遺跡の中でも色々と記憶に残っている遺跡の一つです。料金が高かった事。岩をくり抜いたモニュメントの美しかった事。めちゃくちゃ広かった事。客引きが鬱陶しかったこと。ツーリストプライスとばかりにボッタくってくること。幾つかの思い出がすぐ頭をよぎります。

その中でもやはりぺトラの広さには参りました。ただ広いだけならいいのですが、モニュメントが山の上にある為、登ったり、下ったりとまるで登山をしている気分でした。一番大変だったのが、遺跡から宿に戻るまでの上り坂。足が棒になって動かなく大変な思いをしました。

そもそも宿から全て歩こうとしたのが間違いだったみたいです。でも宿からペトラに向かおうとすればタクシーや自称ガイドの客引きに囲まれ、それ以前に町に着いたときから客引きやら、ボッタくったような値段を言ってくるし、人間不信というより頭にきて意地になって歩いてしまいました。

ペトラはヨルダンで一番素晴らしい場所だが、ヨルダンで一番人に興ざめする場所と言われているのも納得で、遺跡や風景の素晴らしかった思い出と同じぐらい色々ときつかった思い出も多いです。人間にも、遺跡にも、本当に疲れる場所でした・・・。

ヨルダンの情景#12
ペトラ遺跡
Ruins of Petra, 1996
-風の旅人- (2020年1月更新)

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