アンマンの町並み
Cityscape of Amman, 1996, 2001ヨルダンの首都はアンマンで、7つの丘を中心に20以上の丘にまたがるほど起伏の多い都市です。折り重なるように丘の斜面に広がる町並みはとても独特です。
アンマンの歴史は古く、およそ9000年前の人類が暮らしていた跡が残っています。
紀元前3500年頃には町があったとされ、紀元前2000年頃、エジプト領に組み込まれた際に大がかりな都市が建設されました。
エジプト人は都市の安全と発展を祈り、当時テーベ王朝で最高神として崇拝されていたアンモン神の名をこの町に付けました。時が経つにつれて、都市名が部族名にも言い換えられ、この地方に住む住民をアンモン人と呼ぶようになりました。
紀元前1200年頃、旧約聖書の時代になると、アンマンは旧約聖書に「ラバ」と言う名で登場します。これは大いなる川と言う意味で、ヤボク川上流の水の豊かな高原地帯であった事からこう呼ばれたようです。ユダヤ人勢力が増大した結果、アンモンからラバート・アンモンと呼ばれるようになりました。
その後、バビロニア人による占領、破壊。そしてアラビア半島から移住してきたナバテア人が、この地で活躍し始めるとアンモン人の名前は歴史から消えていきます。
紀元前3世紀(283-246 BC)には、エジプトのプトレマイオス2世フィラデリフスが、この都市を占領して支配し、彼はバビロニア人やナバテア人によって荒らされた町をギリシャ風に整備して、自分の名前にちなんでフィラデルフィアと名付けました。
その後のローマ時代では、通商上、軍事上、重要な10もの町の連合デカポリスの一つとして発展していきます。デカポリスとは、ローマの元老院に属し、市議会もあり、裁判権、貨幣の鋳造権をもち、周辺の地域を支配する力を持った一種の独立都市のことです。
ローマ勢力、ビザンティン勢力が後退すると、再び旧名アンモンに戻され、時が経つにつれ訛って、現在のアンマンとなったようです。
紀元7世紀からはイスラム支配の時代となりますが、交易路の変更などでアンマンは次第に衰退していき、この後、およそ千年近く、アンマンは「遺跡の中を水が流れる過去の町」となっていました。
アンマンに再び活気が戻ってきたのは、1878年オスマントルコ帝国のチェルケス人移住政策によってアンマンに移住区が作られてからで、1921年には、トランスヨルダンの皇太子アブダラーがこの町を首都として定めました。
1946年ヨルダン・ハシミテ王国が建国されてからは、首都として大きく発展していきますが、アンマンが急速に発展するのは周辺の戦争の影響が大きく、1948年から67年にかけてイスラエルとの戦争から逃れてきたパレスチナ人が流入し、1980年代初頭には、レバノンの内戦で約3万人が避難し、1990年代にはイラク戦争によって多くの人が移住してきました。今でもまだまだ人口が増え続けているようです。
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* ヨルダン情景素写 *
穏健派で知られるフセイン国王は1999年に他界しました。今はその長男ハッサン・ビン・タラール国王が国をまとめています。
前国王であったフセイン国王の名前が付いたモスクがダウンタウンの中心にあります。このモスクは国王の生前からあったもので、元は7世紀ウマイヤ朝の頃建てられたものらしく、それをフセイン国王の父アブダラー国王が改築し、フセイン国王に譲ったようです。
ダウンタウンの中心に位置していることから、バスや人が行き交い、このモスク周辺はアンマンで最も活気のある場所となっています。
ローマ劇場
アンマンのダウンタウンには大きなローマ劇場があります。ローマ劇場の周りは公園のような広場になっていて、夕暮れ時ともなると多くの市民が夕涼みに訪れていました。
この劇場はローマ時代の2世紀に造られたもので、斜面に造られた客席には約6000人を収容できました。ヨルダンで最大級の大きさです。1957年に修復され、現在ではこの劇場を使ってコンサートや演劇が行われています。
ローマ劇場の正面の丘の上にアンマン城塞があります。下から見上げると城壁しか見えませんが、城塞のある丘の上にはローマ時代からビザンチン時代、ウマイヤ朝時代にかけての遺構と、少し離れた場所に鉄器時代の遺構があります。この丘はジュベル・アル・カアラ(城塞の丘)と呼ばれ、アンマン市内やダウンタウンを見下ろせて、なかなか眺めのいい場所です。
フライデーマーケット
アンマンでは金曜日に大規模な青空マーケットが開かれています。古着を中心に家具、工具や農具、ガラクタと呼べるような部品類などが売られていました。
周辺の国からの難民や移民が多い土地なので、売り手はアラブ人に混じり、アフリカ人も多く、多国籍な雰囲気でした。古着のシャツで100~200円程度。掘り出し物を探しに多くの人でにぎわっていました。
* 感想など *アンマンを歩いていて思ったことは「坂が多い」の一言です。「7つの丘に広がる町」と書けば聞こえはいいのですが、ほんと歩くのが面倒臭いほど坂だらけです。ちょっと何かを見に行こうとしても、坂を登り下りしなければならなく大変です。
地元の人は歩くのが面倒なのようで、乗合タクシーの数がとても多かったです。ここまで乗合タクシーの発達している町は初めてでした。観光客にとっては慣れるまでが大変ですが、慣れてしまえば安いし、手軽だしとなかなか便利です。
アンマンの町並み
Cityscape of Amman, 1996, 2001 -風の旅人- (2020年1月更新)