風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~
旅のエッセイ#6

インターネット社会と旅

いつでもどこでも手軽に情報を手に入れられる時代となりました。そういった情報化社会においての旅の在り方について考えてみました。

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1、インターネットで狭まった世界と旅

現在は情報化社会、いわゆるインターネットの時代です。インターネットにつなげば様々なサイトを閲覧することができ、調べ物をしたり、コミュニケーションをとったりするのにとても便利な世の中になりました。

例えば世界遺産と検索すれば、世界遺産のリストが出てきて、どの遺跡が世界遺産に指定されているのかすぐにわかります。そして世界遺産になっているアンコールワットと調べれば、アンコールワットの写真が沢山出てくるし、アンコールワットの歴史や概要がすぐに出てきます。日本にいながらにして、いや自宅の部屋から出ることなくアンコールワットというものを知ることができます。

テレビ番組の場合は放送される日時が決まっていますが、インターネットの場合はいつでも好きなときに調べたり、画像などを見ることができますし、一番欲しい情報、例えば訪れるのに一番いい時期とか、営業時間、入場料がいくら掛かるとかを素早くピンポイントで知ることができます。昔のように調べ物をしにわざわざ本屋とか図書館に行って調べなくても瞬時にわかってしまうことに、古い人間としてはもうビックリです。

またTwitter、Facebookなど「人同士のつながり」を電子化するサービス、SNSの登場は更なる社会的な変化をもたらしました。リアルタイムで情報のやり取りができるだけではなく、画像や動画を瞬時に送ることができるので、まさにその場で起こっていることを違う場所にいながらにして共有することができます。先ほどの例で挙げるなら、アンコールワットでお祭りをやっている時にでも日本にいながらにして現在の状況がわかってしまったりします。

またリアルタイムで動画が送れる世の中になったので、会社での会議はテレビ会議で、予備校の授業も有名な先生の講義が離れた場所で受けることができます。社会の発展とともに実際に人が移動しなくても済む場合も多くなってきました。

旅に当てはめても、グーグルのストリートビューを利用すれば離れた地域の町の散策ができ、興味のある寺院や観光地などをクリックすると写真がどっさりと出てきます。家にいながらにして世界旅行ができてしまう時代といっても過言ではありません。

近年は昔に比べて飛行機や超高速鉄道などの移動手段が発展し、驚くほど移動が早く、簡単に行えるようになり、旅のスタイルや価値観が変わったと感じていましたが、インターネットが生み出す新たな情報化社会によって現在進行形で旅の価値観が劇的に変化していると感じます。

ヒマラヤの山々の写真 旅の情景スケッチ
ヒマラヤの山々

少しトレッキングするだけで雄大な景色に出会えます。

2、日常と同じ確実性が優先される旅

かつて書き手の主観が反映される一枚の挿絵が貴重だった時代、旅人はその挿絵を頼りに胸を膨らませながら旅をしていました。そして大袈裟に書かれた挿絵と現実とのギャップにガッカリしたり、憤ったり、やっぱり凄いなと満足したりしていたはずです。それが昔の旅でした。

しかし、今では訪れる場所に何があるのか、どんなものが展示されているのかを簡単に調べる事ができます。いや、調べる気がなくてもガイドブックやパンフレットなどに写真が載っているので、旅に出る前から訪れる先にどういったものがあるのか、どういう謂れがあるのかを分かった上で訪れる事が大半です。

それだけでは心配な人は更にインターネットで徹底的に検索し、迷子にならないように、見落としがないように、人によっては調べていないことが不安に感じてとにかく調べます。そしてそういった事に何も疑問を感じていなかったりします。

でもそれって・・・本当に心から楽しめる事でしょうか。単にガイドブックやインターネットのサイトに載っている事を確かめに行っているだけではないのでしょうか。日常と同じ行動をしているだけではないのでしょうか。こういった旅をしている人をみると、脱日常を主題とする旅の楽しみ方として何か違うんじゃないかな・・・と違和感を感じることがあります。

また現在は携帯電話の高機能化進んだ結果、手軽にインターネットに接続できる情報端末を手にして移動するのが当たり前の時代です。車にはカーナビ、人間には端末があるので目的地に向かう際に迷子になることがほとんどありません。迷ったり、わからないことがあればすぐに調べればいいのですから楽ちんです。おかげで事前の準備も適当で済み、旅に出る心構えも必要なし。わからないことや困ったことがあればその場で調べればいいのですから。

便利でいい時代じゃないか。旅だってしやすくなった。そう思う人がほとんどでしょう。でも実際はどうなのでしょう。仕事で移動したり、訪問するのでしたらこんなに便利なことはないでしょうが、旅の場合、迷子になることの楽しみ。状況が分からなくて不安になったり、営業時間が何時までかわからないからドキドキしながら急いで移動したりといった、不確実性への遭遇が減ってしまいました。

例えばバスの時間に間に合わなくて何もないところで1時間待たなければならなかったとか、地元の人の親切に助けられたとか、本来見るはずのなかったものを見ることができたり、できなかったったり、そういった不確実性を楽しむのが旅であり、人生なんじゃないかなと思うときがあります。

そして迷子になったときに自分の力で何とかする機転、誰かに聞く勇気、そういった事がどんどんと社会から失われているような気がします。迷子になった時に端末で調べるのはいいのですが、調べる事が当たり前になりすぎて、自分自身の人生までもインターネットの情報の中に答えを求め、結果として人生の迷子にならないで欲しいとお節介ながら思ってしまいます。

リスボンのコメルシオ広場の写真 旅の情景スケッチ
リスボンのコメルシオ広場

大航海時代に思いを馳せることができる場所です。

3、未知への探究心

私は以前情報の少ない場所、日本人が全く来ない地域を手探りで旅した事があります。その時に地元の人に尋ねたりして訪問場所を決めていたのですが、紹介してもらった場所を訪れた時の感動というか、その体験は今も深く心に残っています。まるで宝の地図で宝を見つけた感覚でしょうか。これは苦労したという体験によって美化されているというのもありますが、やはり色々と思うところが多くなるのも事実です。

また東南アジアを旅していて当時はシンガポールのマーライオンが世界三大がっかり(旅人の間での噂で正式なものではありません)の一つだと何度も出会う旅人から耳にし、そういった思いを一杯秘めてマーライオンと対峙した時のがっかり度ときたら・・・、というのは嘘で、むしろがっかりせずにやっと三大がっかりのマーライオンに会えたという感動で一杯でした。

もしその時に三大がっかりということを聞いていなかったらこんなに印象に残る旅路ではなかったはずですし、ましてインターネットで検索していたら訪れていなかったかもしれません。前章と少し被りますが、百聞は一見に如かずといいます。ガイドブックやインターネットの写真を見て(一見して)訪れたのと、人に噂を多く聞いて(百聞して)訪れたのとでは随分と感想が違ったのだろうと思える出来事でした。旅においては「百聞は一見(実際に見た時)の価値を高める」というのが真理かもしれません。

クレムリン宮殿の写真 旅の情景スケッチ
クレムリン宮殿

モスクワの象徴です。とてもメルヘンチックに感じます。

4、旅に必要なのはワクワクする冒険心

私の懐古主義的な自慢話はさておき、もっと簡単な例で考えてみてください。例えば旅に出て、現地の旅館や食堂の人に「今日は変わったお祭りがやっているから行ってみたら」、或いは「この先にあまり知られていないけどきれいな滝があるから行ってごらん。」などと言われて、そこに何があるのか、そこで何が行われるのかよく分からないまま訪れ、実際はそこまで大したことではないのに感動したり、充実感を味わった事はありませんか。

こういった場合、これから行く先の道筋が分からないから冒険心みたいなものが目覚め、また何があるのか、どういう行事が行われるか分からないからワクワクしてしまうものなのです。もしそこでインターネットで調べてしまったら、小さな滝だからやめよう。小さな祭りだから面倒だとなったかもしれません。我慢して調べないことも大切なのです。

もしこういった情報が一人ならず複数の人からもたらされたものだったらどうでしょう。途中ですれ違った人にもこの先の滝は誰もいなくて雰囲気がいいよ。などと言われたら、更に期待感に胸が膨らむのではないのでしょうか。

写真のない江戸時代でも旅は頻繁に行われていました。江戸名所会や安藤広重東海道などといった絵や浮世絵はありましたが、ほとんどの人は人づてにいろんな噂を聞いて旅をしていた事でしょう。徒歩なので長い旅の道中にあれこれと想像し、休憩場所では他の旅人に話を聞き、また更に想像してといった感じだったはずです。そして訪れた時の感動は・・・となったはずです。

昔の人は徒歩での旅が当たり前ですから、今の旅とは違って恐ろしく根性と体力が要ります。その原動力となっていたのは人間本来持ち合わせている想像力や好奇心だったはずです。更に古くは世界七不思議というのがその典型的な象徴かもしれません。

そういった想像力や好奇心が現在の旅に欠けてしまっているのではと感じます。その原因がインターネットを中心とした情報化社会にあり、またその情報化社会に慣れてしまった人々の情報に対する考え方の変化にあるのではないかと思えます。

ラール・キラー(赤い城)の写真 旅の情景スケッチ
デリーのラール・キラー(赤い城)

独特な風格がある城です。

5、画像が氾濫する世の中

情報化社会となり、仕事中でも私生活でもインターネットで調べるのが当たり前の社会になってしまいました。何か困ったらググれ!というのも当たり前です。旅にしても旅行先をどこにするかを決めるときから色々と調べまくり、旅行先を決めて実際の旅の最中でもインターネットにお世話になりっぱなしという人も多いです。

時間に余裕がない社会人にとっては、せっかくの休日なんだからちゃんと調べて時間の無駄のないように・・・となってしまうのはしょうがないことです。でもこれはインターネットが云々というよりも、調べなければ落ち着かないといった現代人の習慣病という部類ではないのかなと思えます。

知ることが旅において良い事なのか。昔の自分だったら旅の予習もしないで旅に出るなんてもったいない。予めどんな遺跡があってどんな歴史があるかを調べておかないと行っても面白くないじゃないか。と思っていましたし、その国の言葉や文化などをよく知っておかないと旅が楽しくないし、トラブルにも巻き込まれてしまうと思っていました。

ただ最近は知りすぎることは旅によくないのでは・・・。と思うようになってきました。というより安易に知りすぎるのがよくないというべきでしょか。昔は調べるのにも図書館へ行って・・・と苦労して調べて、行きたいところへの想像を膨らませ、胸をときめかせていました。

しかしながら今は家にいながらしてインターネットで手軽に調べることができます。しかも瞬時に多くのことを知ることができたり、類似項目などを比較できたりと、百科事典も真っ青といった感じです。

でも手軽ゆえに調べることに対しての熱量や得た知識の重みがありません。簡単に色んな事を知ることができるので、一つのことに関心が低いともいえ、あっこんなところ。ふ~んといった感じで、その時点で満足し、知識の欲求が完結してしまうことが多いです。これでは旅に出る前に欲求や好奇心の大半が完結してしまっています。

多くのことを調べ、そこに何があるのかを知ったうえで、後は情報通りのことを確かめに行くといったような旅をしている人も増えてきました。最初はそれで楽しいかもしれませんが、これではそのうち旅に出なくても一緒じゃないと思うようになるのではないでしょうか。

更にはあふれている画像や動画の多さです。写真を沢山見せられてしまうと、よほど興味を持った場所でない限り、わざわざ時間とお金をかけて行く意欲が湧いてきません。

一昔前は通信容量の問題があったり、デジカメ等の画質もよくなかったので、写真も小さく、ほどほどしかなかったのですが、現在では写真のデジタル化や通信技術の向上で、高画質の写真(画像)が当り前のように溢れています。ソーシャルメディアなどではつぶやきの文章だけではなく、画像や動画のやりとりも行われているようになりました。この画像、或いは動画が氾濫している状況こそが現在の情報化社会の特徴です。

写真は正確な情報です。画像の与える情報の多さは文字情報の比ではありません。写真を見ることで実際に訪れた人と知識の共有が簡単にできてしまうのです。もちろん100%の臨場感を共有できるわけではありませんが、場合によってはリアルタイムでおよそのアウトラインは共有できてしまう場合もあります。恐ろしく便利な世の中になったと言わざるをえません。

今どこで何が行っているのか。何が起きているのか。その気になればすぐにわかります。とりわけ災害時や電車が止まっているといった情報などはすぐに広まり、役に立ちます。普段の生活、日常においてはとても有用なツールとなりますが、旅においてはその限りではありません。いや便利なのは旅でも変わらないのですが、この便利さが旅の冒険心を減らし、多くの情報や多くの画像を見ることで想像力や好奇心を失わせてしまっているのです。

画像を多く見たことで知った気分になってしまう。それはあらすじを知ってしまった映画、結果を知っているサッカーの試合を見るような気分に近いものではないでしょうか。

メキシコのイエルベ・エル・アグアの写真 旅の情景スケッチ
メキシコのイエルベ・エル・アグア

石灰岩でできた変わった風景です。

6、インターネットの弊害と功

近年では旅に出る若者が減少したという話を聞きます。お金や時間がないとか、単に時代の流れとか、趣向の変化と言えばそれまでですが、車やバイクに乗る若者が少なくなったという話も聞くので、冒険心というか、そういったものが今の若者にはあまりないのかなといった印象を受けます。そういった消極的な姿勢と同時にわざわざ行かなくても調べられるし、誰かが画像をアップしてくれるんじゃない・・・といった情報化社会の弊害も合わさっているのかなという気もします。

情報端末で瞬時に情報を共有でき、インターネットにつなげは世界中の様々な画像を見ることができます。家にいながらにして海外のことを知ることができると、あたかも世界との距離が縮まった気がしたり、自分は世界を知っているような気になれたりします。だからざわざわ見に行かなくても・・・といった気持ちになるのも無理はないかと思います。

でも実際にはその距離は縮まっていないのです。知った気になっていたり、気持ちで縮まったと錯覚しているだけなのです。むしろ逆に足が遠のいて、距離が広がっていると言うこともできます。これが情報化社会の弊害になるのではないでしょうか。見たい、行きたいといった好奇心のために行動する若者が昔よりも減ってしまった気がしてなりません。

弊害ばかりではなく、もちろんいい部分もあります。ガイドブックに載っていることやインターネットなどで知り得た情報を確かめに行くのもひとつの旅です。映画やアニメなどの舞台となった場所を検索して、そこを巡る聖地巡礼などといったことも流行っていると聞きます。インターネットの掲示板などで登場する場面の情報を出し合って、場所を特定し、そこを訪れていくといった巡礼旅も楽しいと思います。多くの知識が共有されるSNS時代の旅といった感じです。

ローカル線を乗り継ぐ旅などもいいですし、離島を巡る旅にも憧れます。昔は情報が少なく、ちょっとした冒険といった感じでしたが、今ではインターネットで検索するとそういった旅についても情報を得ることができ、少し敷居が低くなりました。ただ、そういった地域は過疎化によって運行本数が減っているので、実際のところは昔よりも難易度は上がっていたりしますが・・・。

その他にも多くの旅のサイトがあり、様々な個性的な旅があるんだなとビックリします。自分が思いつかないような旅をインターネットから探せたり、そういった旅をした人の旅行記を見ながら自分だったらと想像するのも面白いです。また遺跡や廃線跡などといったマニアックな分野に関しても行き方などが載っているような専門性のあるサイトも多くあり、昔のように図書館で調べ、地図を頼りに現地を歩き、なんとか人に尋ねてたどり着くというようなこともなくなりました。

インターネットが普及する前は、宿や駅などに置かれていた情報ノートなどで旅の情報を共有するのが一般的でしたが、そういった情報をインターネットで共有できるのはとても便利です。しかもどこからでも手軽に情報を見ることができるし、情報も全国から集まってきます。同じ旅をしている仲間を見つけやすくなったといった感じでしょうか。

それと同時に、情報が集まりやすくなったことで、社会が各一化しつつあると感じている人は多いと思います。旅でもみんなが同じように同じ場所を訪れ、驚くほど似たような写真をSNSにアップしています。インスタ映えすると話題になれば大挙して人が訪れ、似たような写真を撮っていきます。ファッションや化粧にしても人と同じにするのが当たり前の文化になってしまったと感じます。

旅とは本来自分自身の好奇心を満たす機会です。何があるか分からないから旅は面白いのです。何もないかもしれません。何もないから何かしようと別の発想が生まれるものです。情報誌に載っているレストランやラーメン屋ばかり訪れるのもいいかもしれませんが、自分でそういった店を発見するのも面白いものです。

それは人生でも一緒です。なんでもかんでもインターネットで検索するのではなく、時には自分の目で見て、足で探し回って、そして自分の頭で考えることも必要です。誰かのお勧めを選ぶばかりではなく、たまにはインターネットで検索しても出てこないようなことをする勇気をもってみてはどうでしょう。

旅についてのエッセイ
インターネット社会と旅
風の旅人 (2020年3月改訂)

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