風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~
旅や旅人にまつわるエッセイ#1

旅とは?

旅とは何だろう。旅にこだわるほど旅という言葉の意味や使い方が気になってくるものです。

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1、旅って何だろう?

旅って何だろう?普通の人より旅に出る機会が多いせいか、旅についてあれこれと考えることがよくあります。しかし、改まって考えてみても、「旅は旅だよな・・・。旅行することとでは違うよな・・・。でも何が違う?う~ん・・・」と、なんとなくわかっているんだけど、なかなか具体的にこれが旅だという結論に至りません。

そもそも旅といっても個人旅行に団体旅行、家族旅行に修学旅行、社員旅行やら卒業旅行に、感傷旅行、慰安旅行、湯治旅行、観光旅行、巡礼旅行、冒険旅行、登山旅行、撮影旅行・・・、うへぇ~、四字熟語のオンパレードだ!・・・・じゃなくて、様々な様式、形態の旅があり、どれも旅と名が付いていることから全て同類の旅と言えるようで、なんか違う旅という気もします。

これらを一通りの旅として定義していいものだろうか。いや、だからその旅ってなんだろうって考えているんだっけ・・・・。とまあ、「旅は旅することだよな・・・。うん。」と、いつも思考は巡り巡って振り出しに戻ってしまいます。

これではいつまで経っても堂々巡りのままだ。一度調べてすっきりさせておこう。気が向いた日に図書館に出向き、不真面目な人間を寄せ付けないような神聖なるオーラが漂う百科辞典コーナーから分厚い百科辞典を引っ張り出してきて、旅とは何だろう?旅の定義ってものがあるのだろうか?を調べ始めました。

旅の情景スケッチ ヨルダンのワディ・ラム(赤砂漠)でらくだを引く少年の写真 旅の情景スケッチ
らくだを引く少年

ヨルダンのワディ・ラム(赤砂漠)での写真です。

2、辞書的な旅の定義

強烈に本の匂いがする辞典を開き、「旅」の項を捜すと、冒頭に「旅」を簡単に一言で表すと「純粋な人の空間的移動」と書いてありました。そして「人と財貨の空間移動」と「財貨」が加わると「交通」の意になるとも書いてありました。

なるほど、なるほど。さすが分厚い辞典様だけあっておっしゃっている事が違うな。神聖なオーラを放っているだけはある。うむうむ。・・・。・・・。う~ん? と、えらそうに言いつつ、この言葉の意味がほとんど理解できていませんでした。

「旅」と「交通」の区別がよく分からないし、そもそも「空間的移動」って何?そんな言葉知らないぞ!普通の移動ではだめなのか。財貨って・・・、旅でもお金を払って移動しているよな・・・???といった状態。

きっと「旅とは純粋な人の空間的移動である。」といった定義では私同様に多くの人が理解に苦しむのではないでしょうか。これではそのまま旅の一般的定義として使えない・・・・。というより何より、私自身が理解していなければ説明もできないし、お話にならない。習い事を始めて、いきなりつまづいてしまったような感じでした。

やっぱり旅は旅って事でいいかな。曖昧こそ日本文化なり。いやいや、せっかく図書館まで足を運んだのだし、ここで諦めてダメだ。と、めげずに先を読んでいくと、次に「日常の生活場所を離れ、別の土地、別の人間、別の風景に出会い、かつ別の生活を体験するのが基本である。」と書いてありました。やたらと「別」という漢字が出てきますが、先ほどよりも具体的になり、これなら私にでも感覚的に理解できるし、簡潔に旅の基本について述べているような・・・気がします。少し旅の本質へ向かう足がかりがつかめたような気がしてきました。

しかし、よく考えてみると、これもなんだかすっきりとしません。この文章を読んで真っ先に思いついたのは、学校の林間学校や部活などの合宿、海外短期留学といったものでした。留学や合宿なども旅の一種だろうか?それとも私の想像力が豊か過ぎるのだろうか?いや、そんな事はないはず。なんていうか・・・、「生活を体験する」って部分が現在においては微妙な表現のような気もします。

その理由は現在では縄文時代の生活体験、農村の生活体験、牧場の生活体験、短期留学で海外の生活体験と生活体験があふれかえっているからです。とはいってもこういった生活体験も突き詰めていくと滞在型旅行であったり、生活体験旅行となるのでしょうし、普通の海外ツアーも簡易的ながら海外生活体験と言えなくありません。

しかしながら旅に出るのに、旅をしたいから旅に出るのであって、生活を体験したいから旅に出るわけではないはず。このへんの感覚というか、ニュアンスがしっくりきません。要は生活の意味が多意味過ぎて、辞書を書くような知識人ならともかく私のような凡人には混乱してしまうのです。

ここのところをちょっとすっきりさせた方がいいのでは。今まで旅で得た経験を駆使し、試行錯誤した結果、「日常の生活場所を離れ」の部分に「一時的に」と付け加え、「かつ別の生活を体験するのが基本である。」の部分を「かつ食事や宿泊などを体験すること」にして、「旅とは一時的に日常の生活場所を離れ、普段とは別の土地でいつもとは違う人間や風景に出会い、かつ食事や宿泊などを体験するのが基本である。」といった感じにしてみました。

まあ俳句のように文字数が決められているわけでもないし、標語のように文字数が短くなければ不都合があるわけでもないし、ちょっと長くなってしまったのは凡人と天才の差という事で・・・、よしとしよう。とりあえずこれで先ほどの文章よりも一般的な旅の定義らしくなったはず・・・です。

旅の情景スケッチ ミャンマーのインレー湖での伝統的な漁をする写真 旅の情景スケッチ
漁をする船

ミャンマーのインレー湖での伝統的な漁です。

3、旅に必要な要素

他の辞書なども読み、色々と旅について調べていくと、移動生活が生活そのものとなっている遊牧民や商人についての記述も多くありました。農耕民族であった我々から見ると、遊牧民族は生まれながらの旅人であるかのように思えることがあります。

彼らの生活そのものが旅なのだろうか。彼らの移動は困難を極める事もあるだろうし、別の土地で新しい出会いもあるだろうし、今まで考えてきた定義にぴったりと当てはまります。という事は遊牧民は旅する民って事でいいのかな。人生そのものが旅とは格好いいし、なんかロマンチックかも。そう思っていたのですが、更に調べていくと、旅についてもう一つ重要な定義が浮かび上がってきました。それは「脱日常」というキーワードです。

日常から離れる事。それは日常としている生活の場から離れることはもちろん、日常のしがらみなどからも解放されることが本当の意味での旅となるのでは。だからこそ旅には現実離れしたロマンや憧れといった感情が存在し、日常から離れて旅に出たいという気持ちになるのでは。そう考えると、現実逃避的要素を含んでいる移動こそが旅で、遊牧民や商人などの移動はあくまでも日常生活の一部で、彼らの行っている移動は生活の為、いわゆる所用を伴っているもので、日本語で簡潔に言うならロマンチックなイメージとはかけ離れた「出張」「商用」という言葉の方が当てはまる感じです。

実際、遊牧民が暮らす土地では日本語にはない「旅」と「出張」の間の言葉や遊牧民に対する言葉が多くあり、一般的な旅とは区別されています。日本的には「社員旅行」や「修学旅行」が普通の旅行と区別されるべき存在となるでしょうか。

あっ、なるほど。そういうことだったのか・・・。ここでようやく目の前が開けた感じになりました。人が純粋に移動することっていうのは義務や強制、経済といったものを含まず、単に自分の欲望に従って移動するってことなんだな。辞書の初めに書かれていた「純粋な人の空間的移動」というのはこういうことを言っていたのか。なるほど、なるほど。「空間的移動」という単語は正式には理解できていませんが、感覚的には私の頭でもようやく辞書の言っていることが理解できました。

改めて考えてみると、さすがは分厚い辞典様がおっしゃることは違うなといったところでしょうか。言葉の重みが違うというか、奥が深いというか、ちょっと難しい言葉のパズルみたい・・・。でも凡人には少し難しいので凡人なりに砕けた言い方に換えるなら、「旅とは脱日常を含む自由な人の移動行為」といった感じでしょうか。

旅の情景スケッチ インドネシア、マドラー島での水牛レースの写真 旅の情景スケッチ
水牛レース

インドネシア、マドラー島で盛んです。

4、旅の語源から考える

「旅」という言葉の語源についても幾つか書いてありました。一体先人達は何を思って「旅」と名付けたのだろうか?きっとそこに旅の定義になりそうな思惑が含まれているはずです。

まずは比較的よく知られている英語に関しての考察。英語では旅のことをトラベル(travel)といいます。これは古フランス語のトラベイル(travail)「苦しみの意」に起因し、それが英語のトラブル(trouble)「困難とかめんどうの意」になり、そして旅のトラベル(travel)になったといわれています。

現在では旅は楽しいものといったイメージが先行しがちですが、昔の旅には困難や苦労がつきもので、こういった字が当てはめられたのだと思われます。現在でも「トラベル(旅)」と「ツアー(旅行、団体旅行)」といった感じで、旅の形態に応じて言葉が使い分けられている事からも理解できるのではないでしょうか。

次に日本語に関しての考察ですが、こちらの方はいまいちはっきりとしていないようで、「旅」の語源に関しては3つの説が紹介されていました。一つ目は、神が村の家々を訪ねてくださいという意味の賜(た)べを請うという説。二つ目は、「食べる」の転訛説。三つ目は、村の青年達が別火で生活する他火(たび)説となっています。

三つの目の「他火説」は「他の火(かまど)に接すること」、または「旅に持参した米を出し合って食事を作ってもらい、かまどの薪代が宿泊代であった。」という解釈もあります。正月のどんど焼きなどといった伝統行事にそういった風習が残っています。

以上の三つの説がありますが、二つ目の「食べる説」はグルメな旅をしている人にはもの凄く共感できるかもしれませんが、総じて三つ目の他火説が一番「旅」の本質に近い気がします。

旅の語源についてあれこれと読んでいると、昔の旅の困難さが記された記述ばかりが目に付きました。昔は船や馬車を除けば便利な交通手段がないので、自分の足で歩いて移動するのが当たり前です。歩くのは時間がかかるし、体力は使うしと、精神的にも肉体的にも時間的にも旅の大部分が移動で費やされていました。しかもその移動が困難で、道は悪いし、山賊や追いはぎが当たり前にいるというからもう大変です。長旅の場合には目的地に無事に着けるかどうかさえも危うかったに違いありません。

こういった困難を乗り越えてでも旅に出たい、好奇心を満たしたいというのが昔の旅人でした。旅に困難がつきものなのは当たり前。困難のない旅は旅ではないと思っていたのかは分かりませんが、旅とは冒険的なものであり、刺激的な娯楽といった認識だったようです。困難や苦痛の多い道中では他人と協力して、また助けられてと人の情けに触れる機会も多かったに違いありません。その困難を和らげるために「旅は道連れ、世は情け」などといった言葉も多々見受けられます。

或いは途中で自分の限界を感じたり、金銭的や天候を理由に目的地が変わってしまう事も多々あったはずです。だからこそ最初に決めた目的地に着いたときの達成感は大きかったに違いありません。目的地に着くことが成功とか、目的地で楽しむことが旅だと思いがちですが、移動こそが旅そのものであり、困難を伴った移動を楽しむことが旅であり、実際には目的地に着く事というのは二の次だったに違いありません。そう旅に出ること、旅をすることこそが第一目的だったのです。

こういった昔の旅の事情を考えると、昔の人が思っていた旅と現在の旅は違いすぎて旅の語源や昔の旅からあれこれ考察するのも無意味のような気もします。現在の人が旅から連想するのは「心躍らせるもの」「楽しいもの」といった感じで、英語の語源のように困難とか、苦しみといった事を連想する人はほとんどいないはずです。

それに現代人の感覚からすると「目的地に着かなければ失敗だ」とか、「移動で苦労するなんて、まるでお遍路のような修行旅じゃん」とか、「わざわざ旅に出てまで無駄に苦労したくない!」などと思ってしまうようです。現在ではお金さえ払って乗り物に乗れば誰でも当たり前に、そして困難なく移動することができてしまいます。ストレスなく目的地に着くことが当たり前となり過ぎてしまい、移動を楽しむといった旅本来の余裕のある移動をする人が少なくなってしまったように感じます。

旅の情景スケッチ エジプト、カイロでのスーフィーダンスの写真 旅の情景スケッチ
スーフィーダンス

エジプト、カイロでの名物ショーです。見ている方も目が回ります・・・。

5、旅と旅行

昔は「旅は旅でしかなかった」に違いありませんが、現在では「旅」よりももっとくだけた「旅行(ツアー)」という言い方が多く使われています。そしてほとんどの人が手軽に行う旅行といった部類の旅を行っていて、「旅」は装飾的な意味合いで使われる事が多くなりました。旅行のパンフレットに格好良く「旅」と書かれていたり、感覚的ながら「旅行」よりも困難を伴うような個人旅行を旅と呼んだりします。

でも困難って・・・、やっぱり昔の旅行とは困難の意味合いがちょっと違います。もちろん秘境ツアーという部類のものも例外ではなく、現地に安全に着いたうえでちょっと冒険みたいな事をしましょうといった感じです。要は困難、面倒、不便さを欲しなければ、お金を払うなどしてそれを避けて旅行することが可能なのです。ですからツアーやチャーターといった楽な選択肢があるのにかかわらず自ら困難に立ち向かうことや不便さに耐えること、面倒を恐れないことを行ってりうのが旅となるでしょうか。そう考えると、ちょっと冷めた見方をするなら現在の旅とはお金を払ってまでわざわざ困難を手に入れる娯楽とか、冒険体験という言い方も出来たりします。

簡単な例を上げるなら、東京から同じ日光に行くにしても旅行会社が主催している日帰りツアーバスに乗って訪れたのと、駅で切符を買ってあえて面倒な各駅停車の鉄道を乗り継いで訪れたのではどちらが思い出に残る旅となるでしょうか。どちらがワクワクするような冒険心が持てる旅でしょうか。楽しい思い出はツアーでワイワイと騒いでいれば作れますが、後で達成感というか、思い出に残るような旅は後者の方ではないでしょうか。乗り継ぎがうまくいくだろうか?現地での滞在は何分で何時の電車に乗って帰らなければ・・・と移動にワクワクする要素があるのが後者の方です。この辺の感覚が旅と旅行の違いのような気がします。

そしてもう一つ重要なのが、移動が便利になった現在では、人々の旅への認識も大きく変わってしまったという事です。例えば東京の人がディズニーランドを訪れるのに旅(旅行)という感覚はありません。でも日帰りで大阪のユニバーサル・スタジオを訪れるのはどうでしょう。一泊するなら日常の生活圏の外に泊まるということで旅といった認識になるのでしょうが、日帰りの場合、大阪とはあまり関係のないレジャー施設だけを訪れるので、それはディズニーランドを訪れるのと単に移動距離が長いか、短いかの違いしかなかったりします。

移動が速く、便利になった結果、人間の行動範囲が広がり、誰でも好きな場所へ速く、正確に行けてしまうのが現代です。その結果、少しぐらい生活圏から出ても旅という感覚はなくなり、また旅の中心を占めていた移動部分の重要性が低くなり、人々の認識の中から「旅の移動」という部分の意識が希薄となる一方、目的地での観光がより重要視されるようになりました。

そして「旅=苦難な移動を乗り越えながらの娯楽」だったのが、徐々に「旅=移動と観光」となり、今では「旅=目的地での楽しい観光(レジャー)」といった認識になりつつあります。言ってみれば、旅とレジャーの垣根が曖昧になってしまっているのが現在の旅であり、旅行ということになるでしょうか。

また、現在においては普段の生活が便利になり、情報化が進んだ結果、旅がどんどん旅らしくなくなっていく気もします。見知らぬ土地を個人旅行する場合でも旅行情報がすぐ手に入るスマホを相棒にしていれば迷子になる心配もないし、行く場所も選び放題。海外旅行にしても言葉が分からなくて苦労することが少なくなり、辞書代わりになったり、場合によっては通訳をしてくれたりします。

こういった日常的な便利さが旅にまで浸透してしまうと、日常の感覚での旅が当たり前になってしまいます。これでは「脱日常」を信条とする旅において、その面白さや魅力も半減してしまうし、旅に必要な困難さや移動の楽しみが省かれがちになります。

結局の所、レジャーとは困難を伴わない楽しいものであり、旅は困難を伴う楽しいものです。旅行は日常を残しつつも旅をするといった感じでその中間といった所でしょうか。なぜ旅に困難さが必要なのか。それはやはり「困難に立ち向かう事」=「冒険心」や「好奇心」といった旅に対する心構えでしょうか。困難を伴ってまで「見たい」「行きたい」という強い好奇心こそが旅の原動力となり、計画的かつ真剣に立ち向かう事で達成感を得られ、また困難を解決、或いは克服していく事で自分自身の成長や気力の充実感を実感できたりもします。こういった充実した達成感はスポーツで言うなら試合後の達成感のようなものであり、例え趣味や娯楽であろうと真剣に取り組む事でやり遂げた充実感が得られるはずです。

そう、誰でも簡単に行えるような趣味に達成感がありますか。困難さを敬遠した旅には、レジャー的な楽しさ、その場的な楽しさしか残っていないのではないでしょうか。といっても・・・、正直これは自己満足の世界かもしれませんね。というより・・・、旅というものが真剣に行うといった対象になっていなく、旅は楽しいもの、娯楽の一部といった認識しかないのが実際でしょうか。

世の中使い捨ての時代ですから旅も使い捨てのような感じで行われているといった感じです。「旅で大事なのは一期一会」と昔はよく言いましたが、そういった旅に必要不可欠であるべき要素が徐々に失われ、旅が味気なくなっているような気がします。

旅の情景スケッチ ニア国立公園の洞窟の写真 旅の情景スケッチ
ニア国立公園の洞窟

海ツバメの巣や古代人の壁絵がある美しい洞窟です。

6、旅の定義のまとめ

最後に旅の定義をまとめてみると、旅、旅行に関しては「人や風景との出会い」「日常からの解放(脱日常)」「日常の居住地から移動」などのキーワードが必ず出てきます。これらを私なりに整理して旅の定義を作ると以下のようになりました。
「旅や旅行の定義(風の旅人流)」
1、普段暮らしている日常の生活領域から離れること。
2、その移動には日常生活にまつわる義務を伴わないこと。
3、移動先で人、風景などの新しい出会いがあること
4、食事や宿泊、観光などを通じて、訪れた土地の文化風習に触れること。
5、一定期間の後に元の生活に戻ること。

6、これら一連の行為が自立的行為であったり、冒険心が含まれていて、移動自体が楽しめること


おまけ:旅とはガイドブックや情報サイトに載っていることを確かめに行くことではなく、自分自身の独創的な好奇心を満たす機会である。

6を分けて書いたのは、1~5までがツアーなどを含めた旅一般の定義であり、それに6を加えたのが厳密にいう旅の定義ということです。そして最後のおまけは私の信条です。ただ最後に私の信条なんて個人的な思いが入っているように、こういうのは結局のところは旅を行う人間の気持ちの問題でもあるので、これが全て当てはまらないと旅だと感じない人もいれば、一つでも当てはまれば旅だと感じて満足できる人もいたりします。

同じ人でも国内の出張には全く旅心を感じなくても、海外への出張には旅心を感じたりと距離に応じて、或いは目的地や期間などケースバイケースで違ってきたりするのも事実です。昔と違って現在は多様化の社会だし、旅とレジャーの垣根も低くなり、旅の種類や形態も複雑になっています。だから色んな旅が存在し、旅はこうだ。旅はこうでなければならない。と定義するのもあまり意味をなさないことなのかもしれません。ただ旅に特別な思いを持っている人間としては、装飾的に使われるにしても旅は旅行、レジャーやバカンスと区別されるべき存在であって欲しいと願っています。

旅や旅人についてのエッセイ
#1、旅とは?

ー 風の旅人 (2019年9月改訂) ー

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