風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ 異文化や歴史についてのエッセイ ~

§1、砂漠に魅せられたものの

我々日本人は砂漠と聞くと遙か遠くの別世界といった感じで、何となくロマンチックなイメージを連想してしまう傾向があります。それは砂漠というものの現実を知らないし、知っている砂漠といえばアラビアンナイトや漫画で描かれるロマンチックで幻想的な砂漠が多く、例えるなら月明かりの下で楽しく楽器を演奏してといったイメージでしょうか。

私も砂漠にロマンチックなイメージを持つ一人で、「なんか幻想的で、いかにも異文化だし、とても楽しそうだから砂漠へ行ってみたい。」そういった安易な思いが砂漠を訪れるきっかけでした。そしていつしか砂漠に魅せられてしまい、振り返ってみると何度となく砂漠へ足を運んでいました。

と大袈裟に書いていますが、砂漠横断など大それた事はやっていなく、ツアーでほんの少し砂漠へ入った程度の訪問です。それでも私が思い描いていたロマンチックな世界と、現実の砂漠の生活の厳しさとの隔たりとを認識するには十分でした。

line
砂漠ツアーでの様子

砂漠ツアーでの様子

(エジプト、サハラ砂漠)

line

実際に砂漠を訪れてみると、普段我々がよく目にするような風景や物はほとんどありません。何処まで見渡しても一面の砂や、激しい日差しによって乾燥しきった岩ばかり。観光やレジャー感覚でちょこっと訪れるのなら、「なんと凄い自然の造形美だな」、「なんて雄大な景色だろう」、「自然は凄いな」などと感動するのですが、そこで1日、2日と滞在していくと、また別の感想を持つかと思います。

時間が経つと共に砂だらけの景色に気が滅入ってくるからです。もしこのままここで暮らす事となってしまったらと考えると、目の前にある砂の山が絶望の象徴に思えてきます。登っても登っても崩れて頂上に辿り着けない蟻地獄。こんなところに住む人の気が知れないとすら思えてきます。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、日本で普通に暮らしている人が実際に砂漠を体験するとこんな感想を持つと思います。

line
ヨルダンのワディ・ラムの写真
ヨルダンのワディ・ラム(赤砂漠)

らくだではなく、4WDに乗ってのツアーです。

特徴的な岩の橋の写真
特徴的な岩の橋

特徴的な風景が多いです。

line

赤砂岩の造形美で有名なヨルダンのワディ・ラム(赤砂漠)に何人かの欧米人とツアーで訪れた時のことですが、最初は自然の造りだした岩の造形美にツアー客のみんながカメラのシャッターを頻繁に押していました。その一方、ツアーガイドの人は「ここの風景は私にとっては何の変哲もない風景なので、皆さんがどこで写真を撮りたいのかわかりません。車を停めますから遠慮なく声をかけてくださいね。」と言っていました。

こんな面白い景色が変わり映えしないとは、なんとも想像力のない人だ。こんなガイドの案内で大丈夫だろうか。そんな事を思いながらも「ちょっと停めてあの岩がきれいだから」とみんなで写真を撮っていたのですが、2時間、3時間と時が経っていくと、ツアーガイドの言っていた事がわかってきました。ツアー客でシャッターを押す人が少なくなっていたからです。

翌日になるとより顕著で、私自身も辺りの風景は何の変哲もない風景に思えてしまい、写真機の出番はほとんどありませんでした。現実的な目で辺りを見ると、砂漠にあるのは殺風景で変わり映えのしない風景だけ。特徴的に思えた岩山も他の岩山に比べて少し変わっているだけなのです。よほど変わった形をしていない限り、そのうち目にもとまらなくなるに違いありません。そう我々を引率しているガイドのように・・・。長く滞在すればするほど砂漠は砂と岩しかない単調な世界という実感がわいてくるものなのです。

line
インドのタール砂漠にある小さな村での写真

インドのタール砂漠にある小さな村

ここでは家も土でできていました。

line

砂漠は砂と岩しかないような不毛の土地なので、人が暮らすには不適です。しかしながら水が確保できれば何とか人は生きていけるもので、水がわき出るオアシスやその周辺に集落を形成して生活を営んでいます。もちろんその暮らしは厳しく、日々水や食べ物に追われる生活を送っています。砂漠ほど物がない世界はないというぐらい物がないと言えるかもしれません。

それはやはり人間が生きていく上での基本中の基本である水が不足しがちだからそう感じる部分が大きいと思います。ある村での話ですが、以前は水を得る為に、片道10km弱の距離を歩いて井戸に水を汲みに行っていたそうです。今では、この砂漠の村にも文明の利器が入り、4WDで輸送していました。蛇口をひねったら水が飲める生活をしている我々からすると、なかなか想像の付かない生活スタイルです。

というより、なぜここに住んでいるの?といった根本的なところから疑問に感じてしまいます。恐らくそういった質問をしたなら、面食らって「なぜって・・・・、ではあなたはなぜ日本で暮らしているの?」といったような返事が返ってくるかもしれません。彼らは自らの意志でそこで暮らし、当り前のように生活していたからです。

line
巨大なシーワオアシスの写真

巨大なシーワオアシス

エジプト西部にあり、軍地拠点にもなっています。

line

砂漠でも人口の多い大規模なオアシスとか、川が近くを流れていて農業用に水がふんだんに使える場所、或いは大規模に資源が採掘されていて働き場があるような場所なら状況が違うのでしょうが、生産性の乏しい普通の小さな砂漠の村で暮らしていくのは大変です。

男の人は現金の収入を得る為に町へ働きに出なければならなく、残された村では炎天下の中、子供や老人が羊や山羊の世話をして、女の人は家事洗濯の合間をぬって絨毯を織っていました。家族や村単位で収入を得られるような農業などが行えないので、羊を育てて売ったり、絨毯だったり、羊などの骨などで作った工芸品を製作して現金収入を得るしかないとの事でした。

水に不自由し、生産性の少ない土地。そう考えると生きて行くには過酷な場所です。それでも訪れた村の人々に悲壮感はなく、砂漠のように乾いた笑顔がありました。私のお節介な心配は無用といったところでしょうか。彼らは彼らなりの価値観があり、それに基づいて日々楽しく、一生懸命共同生活を送っているようでした。

line
鉱泉がわき出る井戸の写真

鉱泉がわき出る井戸

地元の人の沐浴、洗濯場になっていました。

line

砂漠で暮らす人々の持ち物を観察すると、自然の素材で作られた物が多いのに気がつきます。小さな小箱や食器などは木やラクダの骨で作られていて、衣類は麻や綿で、身に着けるアクセサリーなどもその辺で採れたと思われるあまり上質でない石で作られたものでした。持ち物からして自然の中で自然と共に生きている事を感じさせてくれます。

その反面、普段我々が日常で使用しているような物、例えばプラスチック出来たような物とか、電気製品はほとんどありませんでした。彼らにとっては我々が日常で使用しているような物はあまり重要ではないようです。とはいえ、全く興味がないわけではなく、ジーパン、ナイロン製のリュック、スニーカーには憧れるようで、いらないなら頂戴とよく声をかけられました。

彼らにしてみればジーパンなどが珍しいかもしれませんが、我々にしてみれば彼らの持っている装飾品や置物などは珍しく感じます。ある村で、「いらないものがあるのなら頂戴」と声をかけられたので、「その置物と交換しようよ」と返答すると、あっさりと交渉成立。お互いの利害は恐ろしいほど一致していました。

line
オアシスの子供たちの写真

オアシスの子供たち

子供たちも独特な衣装を着ています。

line

彼らの持っている装飾品やその他生活用品などは独特で、文化的にも魅力的に感じますが、それらを使用してここで暮らすとなると話は別です。普段から物にあふれた生活が当たり前の私達にとって、電気製品の少ない生活は不便であり、退屈であり、苦痛に感じるはずです。おまけに周りは砂だらけで、灼熱地獄ときたら、自らの意思で砂漠の住民になることは、並外れた努力が必要に違いありません。

テレビゲームやビデオ、最新のオーディオで遊んで育った子供達は、その辺に生えている草木や転がっている石、大地で遊ぶ事を考えなければならないだろうし、都会で一人暮らしをしている人でいつも夜中にお腹がすいてコンビ二に行っていた人は、夜中にお腹がすいても食料を調達できる店がありません。お金を出したら欲しい物がなんでも買えてしまい、それが当り前の事だと感じていると、このように物に不自由する暮らしはとてもストレスを感じる物ものでしょう。いや、耐えられないに違いありません。

でも砂漠に住む人々は、ここの生活が退屈だと言いながらも立派に暮らしています。文明社会に対しある種の憧れはあるかもしれませんが、やはり今の生活がなんだかんだといっても馴染んでいるようでした。彼らと数日生活を共にしてみると、我々文明社会にどれだけ多くのエゴによる資源の無駄があるか、いかに自分が物に対して無頓着であったかを考えさせられました。

line
カイロのラクダ市の写真

カイロのラクダ市

ラクダだらけで異様に感じます。

line

といった感じで、砂漠にあるのはロマンなど華やかなものではなく、砂と岩が作り出した殺風景な風景と、厳しい自然と物のない生活です。砂や岩を掘れば石油、鉱石などが出てくる場所もありますが、石油や鉱石にしても大規模な施設を利用して加工しなければ使えない物。地元の人にとって、そのまま生活に役立つような資源ではありません。

彼らの生活において重要なのが、水、ヤシの木、ラクダやヤギなどの家畜などです。ヤギが何頭とヤシの木が何本ないと結婚できないといった習慣がある所もあります。物が豊かではない彼らにとって、生産品を生み出す物を持っていることが重要なようです。女性の観光客が「俺はラクダを5頭持っているんだぜ」と現地の男性にプロポーズされて面食らってしまったという話も聞きました。我々文明人にとっては、ラクダを5頭よりも車や家電の方が断然魅力的に感じることでしょう。これが砂漠と文明社会の価値観の違いなのです。

line
タール砂漠の村で女性の人たちとの写真

タール砂漠の村で女性の人たちと

この地方では色鮮やかな衣装が好まれていました。

line

ある村での女の人との話、「外国の遠い所からわざわざこんな砂しかない所へよく来たね。あんたの国は豊かで、物が沢山あふれているんでしょ。こんな何もないところへ来て何が面白いの?お金が余っているから、こんなところへ来るのでしょう。何かいらないものがあったら置いていって頂戴。ここには物がなくてね。何でもいいのよ。」とまあ、もらえるものがあるならもらっておこうといったところでしょうが、現地の人から見たら外国人観光客はそういう風にみえるようです。

「特にいらないものは持っていないよ。」と返答すると、ガッカリした様子で「あなたはこんな所へは住む気にもならないでしょ。観光客はみんな興味本位でやってきて写真を撮っていくだけ。でも、それで私達も小銭を稼ぐ事ができるけどね。」と、嫌味に聞こえなくもないのですが、実際に寂れた村で面と向かって言われると、なんかぐっとくるものがありました。まさにその通りだったからです。

私も単に興味本位で訪れた冷やかし半分の観光客の一人だと改めて思い知らされました。文明に囲まれて育った私は、今の生活と砂漠の生活を天秤に掛けなくとも今の生活を選択する事でしょう。砂漠が好きだから来たと言いながら本当は心から砂漠が好きではないのです。ここで暮らすような覚悟もないのです。話した女の人は、ちゃんとそのへんのことを見抜いていました。

line
モロッコのオアシスでの写真
モロッコのオアシスで

ロバが移動手段になっていました。

赤砂漠でのご来光の写真
赤砂漠でのご来光

とても幻想的でした。

line

砂漠の人々を見ていて感じたのは、「この厳しい生活は大変だ。しかし、この社会に自分は必要だ。」といったどうにもならない諦め以上に、みんなの為、家族の為という共同意識を持っている事でした。それがとても気持ち良く感じました。この様な厳しい自然の中でも暮らしていけるのは、ここの住民がお互いを尊重して助け合っているからに違いありません。

厳しい自然は人間にとって偉大な哲学書ではないでしょうか。そして厳しい自然の中で人間の心は研ぎ澄まされていき、とても人間味のある人格を形成しているのではないでしょうか。我々が日本の学校で習う机上の勉強とは違った種類の学習方法です。どちらがいいかは分からないのですが、私にとって、このような人々に出会えた事が、また違った価値観を生み出してくれて、遥々砂漠にまで行ったかいがあったと思いました。

line
エジプトの白砂漠の写真

エジプトの白砂漠

白砂漠もまたいい景色ですが、すぐに飽きます。

line

今の日本の社会を考えてみると、社会全体はとてつもなく大きいなものです。その巨大な社会の中で自分がいなければこの社会が成り立たないなどと思っている人はどれほどいるでしょうか?ほとんどの人が、自分がいなくてもこの社会は何一つ変わらない。そして自分が怠けても誰にも迷惑がかからないと思っています。それ故に無気力な人間が生まれるのではないでしょうか。

文明の便利さの中に浸っていると、危機感というものが麻痺してきます。砂漠に住む人々は大げさに言うなら自分が怠けたら皆が死に直面するといった危機感や何時自然の猛威にさらされるかもしれないといった危機感のを持っています。膨大に膨れあがった文明社会は、安全さ快適さ便利さと引き換えに危機感のない平和ボケした無気力な人間を増やしているのではないでしょうか?砂漠に住む人々の笑顔を見ていてふと思いました。

line
ペルーのワカチナオアシス周辺の写真
湧き水と砂丘の写真

ペルーのワカチナオアシス周辺
湧き水と砂丘

砂丘の高さに絶叫します。

line

最後に有名な「月の~♪砂漠を~♪」という童謡はご存知ですか。この歌では王子様とお姫様がラクダに乗って月明かりの砂漠を往く情景が描かれていますが、砂漠の民とか、キャラバンと聞けば、多くの人がこの歌のように月明かりの下、砂漠をテコテコとラクダに乗っていたり、焚き火を囲って歌っている場面を想像するのではないでしょうか。その光景はとても幻想的であり、またロマンティックでもあり、見ることが出来るなら見てみたいと思っている人も多いと思います。

最初に書いたように私自身もそんな絵に描いたような光景にあこがれて砂漠を訪れたのですが、実際に訪れてみて初めてその実態について理解できました。厳しい自然のなかで暮らす砂漠の民。彼らは実に自然とうまく共存していました。そういった自然に合わせた彼らの文化や風習を書いてみました。

line
夜の砂漠での食事

夜の砂漠で

楽しいひと時です。

line

キャラバンというと、真っ先の浮かぶのが夜に焚き火を囲んでいるイメージです。絵本などにそういう絵が多かったのか、はたまた私がそういう絵が好きで印象に残っていたのか。私のとってのキャラバンは、月明かりの下の住民でした。実際に砂漠を訪れてみて、その理由はすぐに理解できました。

まず昼間に砂漠を歩いてみるとわかるのですが、そこは考えられないほどの灼熱地獄です。40度にもなる気温はもちろん、強烈な太陽の日差しや照り返しの強烈なこと。紫外線で肌や目がやられてしまいそうです。それだけでも大変なのですが、一番問題なのは砂が熱い事です。サンダルで歩いていても足が火傷しそうなぐらいです。昼間の絵がないのは、あまりにも砂が熱くて歩けないからです。もちろん日中の激しい日差しの下で長時間移動するというのも至難の業。木陰などで寝ているのが利口な方法です。

そうして、夕方になり気温が下がると動きはじめます。今でもその名残のせいか、みんなよく昼寝をしています。40℃を超える暑さでは、何もやる気が起こらないのも無理もありません。そして夜になると、月明かりの下、月明かりを頼りに歩き出します。月が出ていなければ、星座を頼りに歩き出します。このため、砂漠の人々は月や星を崇めていて、服や絨毯、その他持ち物に月や星が形どられているものが多いのです。

line
砂漠での野営の写真

砂漠での野営

日が昇ってくると灼熱の世界になります。

line

キャラバンの人々はなんといても水を大事にします。水を無駄にすると命に直結するからです。例えば砂漠を移動中には貴重な水を浪費しない為、食器を使い終わったら水で洗う事はせず、砂漠の砂で洗っていました。それってむしろ汚れるような・・・と思わずつぶやくと、当たり前のように砂は灼熱の太陽が消毒してくれているので綺麗なんだと言われてしまいました。そう言われてみると、これも一理あると納得。少なくとも我々の日常生活からは想像もつかない事です。

面白い習慣もあるもんだと感心していたのですが、許せなかったのがトイレでした。もちろん砂漠の真中に公衆トイレがあるはずもなく、自然の中でやらなければなりません。それは覚悟の上なのですが、地元の人はやり終ったらやはり砂で拭くと言っていました。そして手を洗うのも砂。それって・・・。

私には出来ず、持参したトイレットペーパーで拭いて、犬のように砂を被せてきたのでした。今ごろ私が置き去りにしてきた糞はどうしているだろうか?立派に微生物の肥やしとなれたのだろうか。文書を書きながらふと頭をよぎったのでした。

・風の結晶 INDEXに戻る↑

<異文化や歴史についてのエッセイ §1、砂漠に魅せられたものの 1999年7月初稿 - 2015年12月改訂>