風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~
旅や旅人にまつわるエッセイ#19

旅の名言、格言、諺集3

ここでは先人などが残した旅にまつわる名言、格言、諺などを集め、私なりに解説を付けてみました。あくまでも自分の経験を基にした個人的な解釈なので、先人達が言いたかった事と全く見当違いな解釈になっているものもあるかもしれません。その場合は笑いながら読んでください。そしてこっそりと正しい解釈を送ってくださると助かります。

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「旅のよい道連れは旅路を短くさせる」 <ウォルトン>

「旅は道連れ、世は情け」 <日本の諺(江戸いろはカルタ)>

「旅は情け人は心」、「よき道連れは里程を縮める」  <日本の諺>

「三人行けば則ち一人を損う」 <易経>

「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。」 <仏陀>

一人で旅するというのはある意味寂しいものです。孤独との戦い・・・となる人もいれば、孤独とうまく折り合える人もいるので、一人旅がどうのこうのというのは人それぞれといったところかと思います。ただ一人旅というのは、誰にも気を配ることなく自分のペースで旅をできるので、ある意味気が楽であり、また旅を真剣に行うには色々と効率的ともいえます。特に撮影旅行ともなると忍耐の連続なので、他人を付き合わせてしまうと、退屈していないだろうか、怒っていないだろうか、早めに切り上げなければ・・・と気になって集中できません。

私自身一人旅自体は嫌いではないのですが、ただ夕食の時が一番淋しさを感じてしまいます。これは旅と限らず一人暮らしにも共通する事かもしれません。一日の旅を終えて、さて一日の終わりの夕食だ。今日一日体験した面白い出来事や感動した景色について話し合える人ががいたらな。う~ん、誰かに話したくてたまらない。そういった思いと、周りのテーブルではみんなが楽しく食事している中で、ぽつんと一人で食べる寂しさが混じりあい、非常に哀愁が漂った感情になってしまいます。同じ宿に日本人の旅行者が泊まっていると一緒に食べてに行く事もありますが、大概一人なので、せめて夕食のときだけは毎日気の合う話し相手が欲しいと思いました。

食事を例に挙げてみたのですが、その他の事でも相棒がほしいと思うことがあります。何か困った事が起こった事に、すぐ横に相談できる相棒がいたならどんなに心強いでしょう。頼りにならなくても、いてくれるだけでもいいから・・・などと友人の顔などを思い浮かべる事もあります。でもトラブルに巻き込まれて一人で途方に暮れている時など、通りがかりの人などに助けられて意外と何とかなってしまうもので、「世は情け・・・」なのは世界共通なんだななどと思ったりもします。結局のところ容姿、性格は違えど同じ人間なので、少なからず同じような心を持っていたりするものです。

また、陸路で国境を越えるような困難な場面のときも「旅は道連れ~」といった感じで相棒がいれば心強いし、飛行機や長距離バスなどの長い道中も、話し相手がいれば退屈せず、「旅のよい道連れは旅路を短くさせる」というように移動時間も短く感じる事でしょう。また相方がいることで、自分の趣味だけではなく、相棒の趣味の分野にも興味を広げれば行動範囲も広がり、旅もいっそう楽しくなるに違いありません。

しかしながら都合良く求めるだけでは人間関係はうまくいかないものです。相手を思いやったり、助け合うことも必要になってきます。易経にあるように「三人行けば則ち一人を損う」というように、3人になると一人は除け者にされやすくなってしまいます。乗り物の座席も二人がけのものが多いし、宿もベッドが2つのところが多いなどと、せっかくの旅も途中で友人と仲違いしてはつまりません。それ以上の集団になってくると、修学旅行のような旅となり、ワイワイと楽しく時間はあっという間に過ぎていくことでしょう。でもこれでは旅を楽しむよりも集団行動を楽しむ事の比重が高くなってしまいます。

旅に相棒がいると心強いのですが、誰でも旅の連れに選んでいいのかというとそれは微妙なところです。誰かいることでその場は心強く感じる事もありますが、連れとして行動するならやっぱり趣味趣向や性格が似ていないとなかなかうまくいくものではありません。それは人生でも同じ事です。友人関係、恋人関係でもある程度自分の理想の人でないと長く続かないものです。それに「友は選べ」といった感じで、よい仲間とつきあえば自分も切磋琢磨できて色々と高められるけど、逆に悪い仲間とつきあえば駄目な色に染まってしまいます。若い女の人が一人暮らしを始めて寂しさを紛らわすために誰でもいいからと男を作った場合、つまらない男に引っかかって人生が・・・といったことは旅とよく似ている話かもしれません。

仏陀の言葉にある「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。」などは旅でも日常でもいい得ているのではないでしょうか。旅の場合は人生の縮図といった感じで、時間が限られています。限られた時間を最大限有効に使うのはどうしたらいいのだろうか。旅を出る前にそれを考慮に入れて計画を立てるはずです。しかしながら旅で、或いは旅の途中で愚かなもの・・・というのは語弊がある感じがしますが、例えばやる気のない人と同伴した場合、その人と一緒に行動することで、余計な時間を消費してしまったり、行ける場所に行けなかったりすることがあります。3つ訪れるはずだった観光地が、途中で面倒だと2つになってしまうような場合です。もちろんきっぱりと自分の道を進めばいいのでしょうが、なかなかそこまで強固な意志を持つ人も少ないはずです。

そういったことを考えると、仲間はいると心強いのですが、相手を見て、自分の行動力で自分の行動ペースまで引っ張れないと思う人とは行動をともにしない方が賢明です。逆に辺境の地など自分がためらって行くことのできない場所へ簡単に行けてしまうような行動力のある人がいたなら頼み込んでもついて行くべきです。もちろんただついて行くだけでは駄目です。その技術や行動力を学び、少しでもその人に追いつく努力をしましょう。それが仏陀の言う旅での相棒の選び方となるはずです。

旅に出ると沈没地と言われる旅人の吹きだまりのような場所があります。そういった場所で停滞している人たちには必ず仲間がいます。一人では沈没しようにも退屈なだけだからです。そういった人を見ていると、当てもなくだらだらとした人間が同じような仲間を得ると、足を引っ張り合ってしまうものなんだなと感じます。もちろんそれはワーキングホリデーなどの留学でも同じ事がいえます。やる気のない人間が何人集まってもだらだらとする回数が増えるだけです。

逆にやる気のある人間が集まってしまった場合はどうでしょう。とりわけ旅人は自我の強い人が多いので、船頭が多くて何とやらといった感じで収拾の付かないことになりがちです。この点は沈没している人の方がチームワークや、集団での立ち回りの適性があるような気がします。なかなか旅人というのも難しい存在ですね。

旅の情景スケッチ ベトナムの行商の写真 旅の情景スケッチ
ベトナムの行商

竿に籠をつるして運びます。
慣れるまでバランスをとるのが大変です。

「あまりに旅に時間を費やす者は、最後には己の国でよそ者となる」 <ルネ・デカルト>

「郷に入れば郷に従え」 <日本の諺>

旅人の中には「日本は自分に合わないから旅しているんだ」と言う人もいます。でも実際のところ、旅にのめりこみ過ぎて日本の文化に馴染めなくなってしまった人も多かったりします。こういった事は旅に限らず、留学や海外出張にも同じことが言えると思います。日本では日本文化に基づいて人々が生活しています。それを長い海外生活から帰った人間が、「やれ国際化だ。やれ海外ではこうだ。欧米では・・・」と主張しても、「君、ここは日本だよ。日本語でしゃべってね。」といった感じで白い目で見られてしまいます。

ただ最近では昔ほど異文化との垣根が高くないのも事実で、食事にしてもパン食が浸透していたり、マイナーな国の料理店も多く見かけるようになりましたし、また色んな国の文化や情報がテレビで紹介されていたりもします。でもやはり郷に入れば郷に従えという諺が示すように、日本では日本の価値観で物事を考え、日本の価値観で行動するのが日本で日本人らしく暮らすコツではないでしょうか。もちろん逆に海外へ出たらその国の価値観や宗教観に従わないとトラブルの元になります。その時に「日本では・・・」と言っても誰も聞いてくれないのと一緒です。そういった事がその土地で暮らしたり、訪れたりするエチケットみたいなものなのです。

旅の情景スケッチ ネパールの農村の写真 旅の情景スケッチ
ネパールの農村

山国のネパールには美しい田園風景が多いです。

「旅の恥はかき捨て」 <日本の諺>

恥というものを重んじる日本文化ならではの諺かもしれません。他の国で似た言葉があるのか、調べたことがないのでわかりませんが、ちょっと興味があります。

この言葉の意味は、旅先ではどこの誰だかわからないので、少々無様なことをしても恥にはならないから大丈夫といったところでしょうか。観光地に置いてある顔出しパネルなどで写真を撮るのは恥ずかしいけど、旅先だから知った人は見ていないし大丈夫。恥ずかしさも旅の内といった感じでしょうか。よく聞く言葉なので、とりわけ解説の必要もないかなと思っていたのですが、辞書の解説を何度か繰り返し読んでいて、ふと二通りの解釈ができることに気がつきました。

この諺の本来の意味は、旅先の不慣れの地で、当地の文化風習をよく知らず、やむを得なくかいてしまった恥を慰める為の言葉だったのではないでしょうか。武士などに下手に切腹されたりしたら大変ですし・・・。それが近年では、旅の恥はかき捨てだとばかりに大胆に自ら恥と分かっている行動に出る人が多くなりました。だから極端な解釈でいうと「旅先ではどこの誰だかわからないから、少々無様なことをしても恥にならないので進んで恥をかきましょう」「せっかく来たのだから、少々羽目を外さなければ損だ」といった解釈にすり替わってしまっている感じがします。

とりわけ日本人、いやアジア人全般に言えますが、集団になると気が大きくなります。旅先だからといって「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とばかりにマナーの悪いことをするのとは論外です。旅は日常生活とは違う脱日常の世界ですが、日常と同じようにマナーの悪い行動に対して恥ずかしいなと思うような日本式の奥ゆかしさを忘れないで欲しいところです。でもまあ・・・、誰も知った人は見ていないからいいか・・・という発想も日本らしいと言えばそうですが・・・。

旅の情景スケッチ カリマンタン島のロングハウスの写真 旅の情景スケッチ
カリマンタン島のロングハウス

伝統的な長屋に暮らしている人々もいます。

「旅路の命は路用の金」 <日本の諺>

「旅は憂いもの、つらいもの」 <日本の諺>

旅行書やガイドブックなどを読んでいると、「命の次に大事なのはパスポートだ!」、「絶対にパスポートをなくすな!」といった事が書かれています。そうなのかと、初めての海外個人旅行を10日間行ってみても、やはりそうなんだと思っていました。しかし長期で個人旅行に出てみると、写真好きな私のことなので、命の次に大事なのは撮影済みのフィルムでした。パスポートはお金を出せば再発行できるけど、撮影済みのフィルムはなくしたら二度と戻ってきません。そう考え、常にフィルムを第一に考えていたので、パスポートはカメラバックの隅っこに入れっぱなしといった粗末な扱いでした。

何度か旅を経験した後、初めてパスポートをなくしてしまうという体験をしてしまいました。その時に思ったのは「命の次に大事なのはやはりお金だ。」ということでした。パスポートをなくすと同時にお金もかなりなくしてしまったので、なんとも心細い状態でした。お金さえあれば、パスポートも再発行できるし、宿や食事の心配も要りません。大使館がある町ならともかく、大使館がなければお金を貸してくれる人もいません。パスポートがあったとしても、お金を貸してくれる人がいるでしょうか?確かに身分を証明できますが、身分が証明されても極限の状態ではそれが本当に役に立つかは分かりません。例えばどうやって大使館のある町へ行けばいいのでしょう。時間のゆとりはないけど、お金は添乗員やら他の旅行者に借りる事の出来るツアー客にとっては、命の次に大事なものは再発行に時間のかかるパスポートかもしれませんが、孤軍奮闘中の旅人にとっては必ずしもそうではないのです。

それは昔とて同じ事。いやそれ以上だったようです。もちろんこの時代にパスポートというものがあるわけないのですが、それは諺の「旅路の命は路用の金」とかなり現実的な表現に表れていると思います。それに「旅は憂いもの、つらいもの」と自分の足で歩きながら旅をし、山賊やら追いはぎに怯えていた昔の旅路では、頼れるものは自分の力量とお金だけだったようです。もしお金がなくなってしまうと、旅は続けられなくなり、旅の資金を手に入れるために働くなどしなければなりませんでした。お金がなくなって行き倒れになったり、女性の場合は遊女にならざるを得ない場合もあったでしょう。旅は命がけの娯楽・・・というのは言い過ぎですが、今の時代のような手軽なレジャー感覚で行うものではなかったのは確かです。そう考えると、水戸黄門様の印籠は今でいうドラえもんの四次元ポケットみたいなものだったのかもしれません。

旅の情景スケッチ ロバと少年(モロッコ)の写真 旅の情景スケッチ
ロバと少年(モロッコ)

乾燥した土地ではロバが必需品です。

「旅をするのは帰る家があるからだ。 さすらいの旅ほど淋しいものはない。」  <長渕剛(ガンジスの歌詞)>

「家に帰るまでが遠足」 <一般標語>

この言葉はこれは長渕剛さんの歌「ガンジス」の歌詞の一部です。この曲は題名の通りインドの母なる大河ガンジスを歌ったもので、ガンジス川の有名な聖地バナラシ(ベナレス)の川沿いで作曲したとか。このバナラシ(色んな呼び名がある町)はバックパッカーの憧れの地でもあり、日本からも多くのバックパッカーが訪れています。そして長渕剛さんが泊まったホテルだとか、見学したガート(沐浴場)だとか、結構話題になっていたりします。ちなみに全く関係ない事ですが、この「ガンジス」の歌は10分ぐらいの長い曲です。昔よく先輩が仕事中に有線にリクエストしていたのですが、あまりにも頻繁にリクエストしていたので、終いにはこの曲は長すぎるので受け付けられませんと断られていました・・・。って話が脱線してしまいましたが、このフレーズに色々と思う旅人も多いのではないでしょうか。なかなか旅の本質をうまく付いていると思います。

旅の本質は現実逃避なので、家(日常生活範囲)から一時的に離れ、日常生活に束縛されない行為が旅といえます。だから旅は日常とかけ離れた浮世絵物語のように楽しくもあり、旅に出るとまだ家に帰りたくない、まだ旅を続けていたいと思う程楽しく時間が過ぎるものです。そしていざ家に帰る時間が迫ってくると、家に帰る事で楽しい思い出が花火のように消えてしまうような感じがして寂しく感じるものです。帰路に着く前のとても切なく、夢よ覚めないでというような感覚は身に覚えがあるのではないでしょうか。

その反面、長旅をした事のある人、結構きつい旅をした事のある人、不運な事にトラブルに遭ってしまった人などは、またちょっと違う感想を持っているかと思います。ヘロヘロになって帰宅した時の安堵感というか、やっと終わったんだといった充実感というか、ある意味やっと家に帰れる・・・といった感じでしょうか。そして「もし家がなかったら・・・」と考えると、帰る場所があるというのはなんて幸せなんだろう、帰る場所があるからこそ頑張れたんだ。もし帰る場所がなかったらどんなに寂しい思いをする事だろうかと考えてしまいます。典型的なのは長旅、ホームステイ、単身赴任などでのホームシックでしょうか。もちろんこれは旅に限らず日常でも、仕事がきつかった日に家路に戻る時の安堵感なども似たような感じかもしれません。

「旅とは?」のエッセイで書いたように、そもそも旅とは一時的な現実逃避を含んだ移動行為であって、帰る家があって成り立つものなのです。もし帰る家がなければ、ひたすらさすらうだけ。遊牧民などがさすらいの民と言われるのもそういった事があるからです。もちろんそれが彼らの生活スタイルなので、厳密に言うならそれは彼らの日常生活や義務的な行為であって、現実逃避が本質の旅とは異質のものです。もしそういった日常的な行為でもなく、たださすらうだけの旅、行く当てのない旅の辿り着く先はどこになるのでしょう。青木ヶ原の樹海でしょうか。帰る場所のないさすらい旅というのは、本当に寂しいものなのです。ふうてんの寅さんが映画として成り立っているのは柴又に家があるからです。こういったことは楽しい旅の裏側の部分かもしれません。

また、「家に帰るまでが遠足」とよく言います。まあ普通に考えれば・・・、というか、一般的な使われ方は「家に帰るまでが遠足なので、最後家にたどり着くまで気を引き締めて事故のないように・・・」といった感じです。遠足も旅の一部と考えていいので、これを旅に置き換えて考えると、遠足(旅)は家を出て家に帰るまでなんだよとさりげなく、そして簡潔に旅の本質を述べている言葉でもあったりします。旅とは家に帰らないと終わらないのです。そして家に帰ると同時に脱日常の楽しい状態が終わり、再び日常が始まるのです。ある意味この言葉はもの凄く重みがあるなと思ったりもしますが・・・、解釈の仕方次第でしょうか。

旅や旅人についてのエッセイ
#19、旅の名言、格言、諺集3

ー 風の旅人 (2019年9月改訂) ー

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