風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~
旅の雑学のエッセイ

旅の名言、格言、諺集2

先人などが残した旅にまつわる名言、格言、諺などを集め、私なりに解説を付けてみました。あくまでも自分の経験を基にした個人的な解釈なので、先人達が言いたかった事と全く見当違いな解釈になっているものもあるかもしれません。

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「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>

この言葉は意味よりも有名な松尾芭蕉の「奥の細道」の序文に書かれているという事でよく知られているかと思います。草加せんべいで有名な草加宿に百代橋があり、その脇にこの句碑が彫ってある石碑があるので興味があれば訪れてみるといいかと思います。

松尾芭蕉といえば隠密だったとか、色々とその存在や旅の目的について言われていますが、偉大な旅人であり、俳句人であったのも確かかと思います。今でも松尾芭蕉の俳句に魅せられて奥の細道を巡る旅をしている人も多く、その功績は計り知れないように思います。

この言葉の意味は、「月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであって、過ぎ去っては新しくやって来る年もまた旅人のようなものである。」といったものです。この言葉の意味を知った時、芭蕉は隠密とかよりもやはり旅人なんだなと感じました。私自身、ホームページのタイトルを風の旅人としました。それは旅人を風とかけて、砂漠の砂に描かれる風紋のように次々とくる風、旅人により模様が変わっていくといった意味です。

旅人を風と思ったのは、出会いと別れを頻繁に繰り返すような旅をしていたからです。自分は地元の人の心に何を残したのだろうか。一時の風紋のような模様を残したかもしれないけど、時が経てば薄れてしまうだろうし、別の旅人が来たらあっという間に消えてしまうかもしれない。また他の出会いがあればお互いそういった思いは消えてしまうかもしれない。といったように人との出会いに関する事が一番旅での出来事で印象に残っています。

そういった旅人の心理というか、旅の本質を月日の流れにかけたのがこの言葉かと思います。出会いにしても月日にしても新しい事が起きれば古い事は薄らいでしまうものだよといった至極当たり前である自然の摂理を旅人と掛けているところが芭蕉という人物が旅人である証かなと思えます。

旅の情景スケッチ カトマンドゥの町並みの写真 旅の情景スケッチ
カトマンドゥの町並み

王宮を中心に赤煉瓦の町並みが広がっています。

「全ての旅行はその速度が正確に定まってくるにつれ退屈になる。」 <ラスキン>

旅というのは不確定要素が多いのが魅力です。旅とは今暮らしている場所とは違う土地を訪れる行為なので、現地の気候(天気)はどうだろう?から始まり、海外の場合は通貨レートはいくらだろうか?物価はどの位だろう?治安はいいのだろうか?などと調べ始めます。この時がある意味不安と期待が混ざっていて一番楽しい時かもしれません。

実際に旅に出ると、最初の数日は見るもの、行う事の全てが新鮮で、慌ただしく時間が過ぎていきます。この頃は日々が適度な緊張感で満たされ、充実感で一杯なはずです。

でもそれが一週間続くと、目新しさがなくなってしまいます。そして更に長くなっていき、その国の習慣や旅自体に慣れてくると、日々の行動もスムーズに運ぶようになり、旅での生活が単調になったり、観光が惰性になっていきます。

そして思い始めます。せっかく日々の単調な生活から抜け出して旅をしているのに、ここでもスケジュール通りに朝起きて、昼間は観光をして、一日が過ぎている。何で観光をしているのだろう?と疑問がわいてきて、観光意欲もなくなり、観光が単に消化作業になってきます。

毎日の新鮮味がなくなっていくと、動くのも億劫になってきます。これが沈没の始まりです。・・・・と、ここまでくると極端な例ですが、旅とは脱日常が心情なので、旅が日常の感覚に近づいてしまったり、旅をしていること自体が日常と化すと「旅」という感覚がなくなってしまいます。

日常というのは、比較的正確に時が流れ、繰り返すことです。ラスキンの言葉通りで、旅があまり長くなったり、習慣化すると、旅も日常となってしまい退屈してしまいます。私自身も経験があるのでこの言葉には凄く共感できます。

旅の情景スケッチ バガン遺跡の写真 旅の情景スケッチ
バガン遺跡

ミャンマーにある仏教遺跡で、無数のパゴダがそびえています。

「旅は真の知識の大きな泉である」 <ディスレーリ>

「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり」 <アウグスティヌス>

「長生きするものは多くを知る。旅をしたものはそれ以上を知る」 <アラブの諺>

「百聞は一見に如かず」 <中国の諺(漢書)>

かつて情報が乏しかった時代、洋の東西を問わず世界を知る事が大きな知識に繋がると考えられ、こういった旅と知識を関連させた表現が多く使われました。実際、異国の地の知識を持った旅人は土地土地でもてなされ、その知識は重宝されました。

情報社会といわれる現代では、単に知識を得るだけなら本、テレビ、インターネットなどで、旅に出ずとも世界の知識は身につきます。特に最新の映像技術には目を見張るものがあり、巧みなカメラワークや画面編集、雰囲気のあるナレーションによって家にいながらにして、外国の町や遺跡を訪れた気分になれたりします。

また一般の人が普段入れない寺院の奥部などの映像も流してくれ、わざわざ訪れるよりもテレビで見るほうがいいのではないかと思うことがあります。そういったことを考えると、日本で真面目に調べた人の方がなんとなく世界を旅行した人よりも博識になれるかもしれません。

しかし今でも世間では「百聞は一見に如かず」とよく言います。私は写真を趣味にしているので特に感じるのですが、人それぞれ目線というものが違います。それは単純に背の高さであったり、職業、興味、感性の違いによって起こるものです。だから同じ見るにしても他人の目線で見ると、違和感を感じたり、また別の発見があったりします。

そういった事を考えると、実際に自分の目で直に見た場合と、他人によって編集させられた画面を見せられるのとでは記憶の残り方が全然違ってきます。自分の目で見る場合、そこには無意識のうちの観察力が働くからです。だから数年経った後の記憶の残り方も違ってきますし、単なる知識としてだけではなく、実体験として記憶に残るので、他のことにも応用しやすいといえます。

例えばエジプトのピラミッドとメキシコのピラミッドの比較する場合、大きさなどの数字上の比較や歴史的背景の比較は実際に行かない人でも調べればすぐに答えられます。でもメキシコのピラミッドは標高2000メートルにあるので、海水面からの高さはメキシコの方が高いとか、見学するのに酸素が薄くて息切れがするのがメキシコで、砂漠の中にあるので口の中がじゃりじゃりするのがエジプトといったことをすぐに頭に浮かべられるのは、実際に訪れた人の強みです。

旅の情景スケッチ ディエン高原の湖の写真 旅の情景スケッチ
ディエン高原の湖

火山の国インドネシアでは火口湖が多いです。

「他国を見れば見るほど、私はいよいよ私の祖国を愛する」 <スタール夫人>

この言葉を実感している人は結構多いのではないでしょうか。我々日本人で例えるなら、海外に出ると引ったくり、恐喝、スリなどに絶えず注意しなければならなく、なかなか落ちついて歩けません。海外に出ると日本ほど安全な国はないと感じます。

また食べ物や習慣の違いも重要な要素となり、日本を出て3日目にはあっさりとした日本食が恋しくてしょうがなくなる人もいます。日本ほど食事が美味しい国はないと実感した人も多いはずです。

更には宗教や政治、経済の違い、文化や風習、トイレの違い、言葉や顔立ちの違いなどといった事は、最初は目新しく思えても日が経つとうっと惜しく感じてくる場合もあります。

そして思うのが、「慣れ親しんでいる環境が一番だ。」ということです。食事も、習慣も何の心配や気遣いが要りません。実際に海外で嫌な体験や辛い体験をしてしまうと、更にこの思いは大きいみたいです。

日本のことを例えて書いてきましたが、こういったことは日本で暮らしている外国人や、日本を旅行中の外国人旅行者にも当てはまり、同じようなことを思っている人が多いはずです。祖国というのはそれぞれの人にとって、心の奥に存在するとても大事なものです。

それと同時に祖国に対する疑問を持つかもしれません。例えば24時間買い物ができるコンビニや自動販売機は本当に必要なものなのだろうか。便利すぎるということはよくないのではないだろうか?不便な土地を旅行した後にはそう感じるかもしれません。

煩雑な国から戻ってくると、きれいに並んでエスカレーターに乗っている人間が自動車の部品のように思えて気持ち悪く感じるかもしれません。その他、今まで疑問に感じることなく行っていた冠婚葬祭などの風習や祭りに関してもどういう意味があるのだろうかなどと考えるようになってしまうかもしれません。

スタール夫人の言葉通り、他の国を訪れることは、ぬるま湯に浸かっている状態から抜け出して日本の良い部分や悪い部分を見極めるいい機会になると思います。そして普段考えることのない日本という国や文化の善し悪しを考えるってことは、日本らしさの再発見、再認識へつながり、更に日本を深く愛するきっかけになると思います。

旅の情景スケッチ デリーの赤い城の写真 旅の情景スケッチ
デリーの赤い城

インドの宮殿跡で、外観は武骨な感じですが、
内部は美しい空間が広がっていました。

「旅をすることは、他国に対する間違った認識に気づくことである。」 <クリフトン・ファディマン>

日本は島国で、日本に住むのは日本人がほとんどです。基本的には単一民族で、日本の文化の慣習に従って生活しているので、あまり他の民族とか、他の文化や宗教といったことに気を遣わずに日常生活を送っています。

そのため、普段の生活であまり他国の人に対して意識をすることが少なく、バラエティー番組で紹介される極端な例などを信じてしまったりしています。こういったことは外国人が日本に来て忍者や侍がいないというのと同じような感じかもしれません。

こういった笑える話はまだいいのですが、実際に多くの人が知るニュースというのはテロだったり、内戦だったり、大きな犯罪だったりします。また外国人の指導者の発言などは大きく取り上げられて、どこそこの国の人間はけしからんといった考えを持ってしまうこともあります。

しかしながらそういったものは大抵の場合は極端な例です。指導者にしても政治的だったり、交渉を有利に進めるために発言していることもあります。その一部の発言だけを誇張して流したら悪い印象を持つのは当たり前です。

そういった悪いイメージを持ちながらその国を旅をしてみると、その国で暮らしている人は実はいいやつではないか。日本で報道されているのとは全く違うではないかと驚くことがあります。

お互いを知ること。そして尊重すること。とても大事なことです。交換留学や国際交流など盛んに行われ、多くの外国人観光客が訪れるようになると、つまらない誤解が解け、平和な世の中に一歩近づくのではないでしょうか。

旅の情景スケッチ ツォンゴ湖の写真 旅の情景スケッチ
ツォンゴ湖

インドシッキム州の標高3750mにある湖です。

「旅は私にとって、精神の若返りの泉だ」 <アンデルセン>

童話で有名なアンデルセンの言葉です。私自身まだそんなに年を取っていないので、想像でしか書けませんが、旅をしていると、時々ツアーや個人旅行をしている老夫婦に出会います。全てがそうとは言いませんが、皆さん大層張り切って行動されていて、年齢以上にパワーを感じる事もあります。旅に出ると若返るというか、気力にあふれているというか、とにかく元気だなと思ってしまいます。まあ旅に出る事自体が元気な証なのですが・・・。

長い事人生を送ると日々の生活がまんねりになってしまうと聞きます。旅に出ると日常のまんねりの生活から抜け出して、新たな自分や、今まで気がつかなかった物の考え方を見つける事が出来るものです。

新鮮な考え方をするようになると、長い事連れ添っている旦那や女房も新鮮に見えるのでしょうか。新婚旅行のカップルのように仲良く旅行をされている老夫婦を見ると、時間空間の旅をしているのではとか、旅とは若返る不思議な魔力を持っているのかもしれないなと思う事もあります。

科学的というか、現実的に考えてみると、旅というものは限られた時間で行うものなので、「今日はあれとこれをして、明日はあそこに行って・・・」と、あれこれと気を張り詰めて行動します。だからいつも以上に脳の細胞が活性化され、また普段よりも動く事により血行がよくなり、体全体が生き生きとしてくるのではないでしょうか。

もちろん未知への探求心、好奇心といった気持ちは心の活性化につながります。ある程度定期的に旅を行えば心も体も生き生きとし、高価な肌老化防止薬もいらないかもしれませんね。

旅の情景スケッチ ブルガリアの民族舞踏の写真 旅の情景スケッチ
ブルガリアの民族舞踏

独特の仮面をつけて踊っていました。

「恋愛はまさに旅することだ」 <英国の作家D・H・ロレンス>

旅の楽しさは、目的地に到着することよりも、その過程にあるというのは世界中でよく使われる言葉です。旅の目的地を探すことから始まり、どのようなルートで旅するかを計画し、実際に旅では見知らぬ土地の風景や食事、未知の人々との出会いにわくわくするものです。そういった旅の過程を恋愛と表現している作家がいます。とても面白い発想です。

旅は現実逃避を含んだもの。恋愛は自分の感情を相手の心の中に入り込ませて、相手の心の中を旅していく甘い時間。そしてその終焉は現実に戻る時、それは別れなのか、結婚なのか。別れならまた新しい旅が始まりそうですが、結婚の場合にはそこで旅が終わり、家族という大地に根を下ろして暮らすことになります。

「結婚は旅(人生)の終焉だ。」と誰かが言っていたような気がしますが、結婚すること、厳密に言うなら子供ができたときに恋愛の中を旅する旅人は旅人でなくなってしまいます。

旅の雑学のエッセイ
旅の名言、格言、諺集2
風の旅人 (2020年3月改訂)

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