日本の様々な真ん中
日本の真ん中ってどこだろう?日本の端っこを調べていて興味を持ちました。
前章で位置的な真ん中(へそ)を紹介したので、ここでは時間や交通、地図、ネタなど様々な事柄の真ん中を紹介していきます。
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1、日本の中央碑 青森県東北町
青森市の東、国道4号線沿いにある東北町に「日本の中央」と彫られた石碑があります。なぜ東北地方・・・、しかも一番北の青森に日本の中央の碑があるの?と疑問に感じることでしょう。
「日本」というのは「日ノ本の国」という意味。かつては中央の「大和」に対して東北の文化圏を「日本」と呼んでいたようです。それが中国との交易が行われるようになると、中国から見た日の元の国としての日本となります。
その東北を平定するためにやってきたのが坂上田村麻呂。前章の日本のへそ、渋川の項で、平安時代に坂上田村麻呂が東北遠征に行った帰りに渋川に立ち寄り、ここが「東北と都(京都)のまん中だ。ここが国のへそだ。」と言ったとか、言わないとか。というのを紹介しました。
この坂上田村麻呂が東北を平定し、その時に朝廷の力を示すために刻んだと言われているのが、この「日本の中央」の碑ではないかと言われています。西行の歌に「つぼのいしぶみ」とちゃんと詠まれているし、9世紀の青森地方のに「都母(つぼ)」の名が記されているといった根拠もあります。
ただ根本的な問題として、坂上田村麻呂が本当に青森県まで来たのかは疑わしく、どうやら来なかったのではと言われていたりします。そう考えると、いんちきではないか!といった事になってしまうのですが、坂上田村麻呂が来なかったにしろ、彼の後継者はこの地を平定しに来ていることから、同じような経緯で建てられた可能性はあります。
ちなみに縄文時代後期には日本の文化の中心は青森にあったと考えられています。嘘だ!と思う人も青森県内にある縄文遺跡の数々を見れば納得する事でしょう。その名残りで東北は代々勢力の強い豪族が支配していたとされています。例えば、平泉の藤原氏のように。
国道4号線沿いに日本中央の碑歴史公園があり、そこに日本中央の碑が置いてある保存館があります。実際に訪れてみると、矢じりで彫ったと言われているぐらい文字の彫は浅く、高さ1.5m、幅0.7mと大きさ的にも形的にもこれと言ってビックリするような石碑ではありませんが、この石碑のためだけに展示館が建てられ、ぽつんと中央に石碑が展示してあることに驚きました。
入場料は無料ですが、一日何人の観光客が来るのだろうか・・・。いっその事、レプリカか「日本中央 発掘記念碑」みたいな石碑を建てた小さな公園を造り、実物は県立博物館にでも展示したほうがいいのではないだろうか。閑散とした展示室の中で思いました。
ただ、「青森で日本の中央」といった不思議な組み合わせは話のネタ的には面白く、歴史的興味よりもそれを目当てに訪れるような人も多いようです。
< 青森県観光情報サイト >
2、人口の重心 日本のまん真ん中 岐阜県美並(みなみ)、武儀(むぎ)
この中心はちょっと変っていて、人間の数、すなわち人口の重心の真ん中です。なんのこっちゃといった人も多いと思いますが、簡単に書くと、人間1人の重さを60kgとして1000人住んでいる村だと60トン、10万人住んでいる町なら6000トンがその役場にかかるとします。その重さを日本列島の全ての役場に乗せていき、その重さのバランスが取れる点が人口重心地となります。
人口の計算は5年ごとに行われる国勢調査に基づいて行われるので、5年ごとに変ってきます。首都圏の人口が増え続ければ当然重心点が東に移動していくわけで、過去四回は岐阜県の美並村をさ迷っていたのですが、21世紀に入ると東に隣接する武儀町に移ってしまいました。
ここまではそういった中心の話もあるのね。面白い重心だね。といった感じなのですが、あまり笑えない話を書くと、この美並村は、我こそは日本のまん真ん中だと平成9年に日本の真ん中センターといった施設を建ててしまいました。施設内には人口重心地の仕組みやら人口に関することなどが展示してあります。
これがまた必要以上に立派な建物で、総工事費も莫大なもの。この施設は美並村が言うには「日本の真ん中センターは日本の人口重心地として地域の情報を発信するために造られました。建物自体が世界最大級の日時計になっています。」との事。
しかし人口重心は別の町へ移り、入場者は少ないし、色々なオブジェも壊れたまま。維持管理するだけでも年間うん千万円というからビックリ。しかも世界最大級の日時計といっても辺りは山ばかりで、あまり意味をなさない代物。更には次回の重心点が別の町に移る事が予測できていた平成9年の完成というから、何考えてんのと納税者の怒りが爆発中です。小さな資料館とか、道の駅に付随する程度のものにしておけばよかったのです。という事で、近年は日本の真ん中というよりも税金の無駄遣いの中心地?という汚名で脚光を浴び始めています。
また、岐阜から郡上八幡、白川郷に抜ける国道156号線は別名日本のまん真ん中街道で、走っていると、「日本のまん真ん中街道」という看板やら、「日本のまん真ん中の駅」だの「日本のまん真ん中温泉」だの「日本のまん真ん中の里」「日本のまん真ん中センター」といった真ん中づくしの看板があちこちに建てられています。
そしてそういった看板に混じり、日本の首都を東濃へ!などといった看板もちらほらと。なんてことはありません。政治的に考えると、日本の真ん中だから首都の移転はここでといったアピールなのでしょうが・・・そもそも首都移転計画はいずこへ。それ自体が税金の無駄遣いと思えるのですが・・・。今後、日本の中心というよりも、国と地方とが協力して築き上げた税金の無駄遣いの象徴(真ん中)として有名な場所になっていくのかもしれません。
ちなみに現在の重心の中心地は武儀町の山の中にあります。行った人のサイトを見ると、かなり大変な場所にあるようです。そしてそこにあるモミュメントは鉄の塊というか、重りでした。人口重心だけに重さを表しているのでしょうか。美並村と比べるとシンプルかつ明快に感じてしまいます。
参考サイト:美並観光協会
3、時間の中心 明石天文科学館と標準子午線 兵庫県明石市
日本の中心を挙げるとしたらどこ?といった質問をすると、必ず何人の人かは明石天文台(明石天文科学館)、もしくは明石市と答えるのではないでしょうか。
明石天文科学館というのは日本標準時を定めている場所ですが、この標準時の権力というか、教科書にも載るような影響力は絶大で、私も素直だった頃はここが日本の中心だと感覚的に思い込んでいました。
「日本の時間の中心=日本の真ん中」「日本の真ん中だから日本の時計全てがここの時間に合わせるんだ」といった単純な発想でしょうか。私の幼き思い込みはどうであれ、東経135度の子午線上にある明石天文科学館が時間的に見れば日本の中心となるのは確かです。
天文科学館があったから明石市が日本標準時になった。普通はそう考えてしまうと思いますが、明石市が標準時刻の町となったのは、明治43年に日本で最初に標識を建てたからです。
どういうことかと言うと、世界の時刻を決める国際子午線会議がアメリカのワシントン行われたのが1884年(明治17年)のこと。イギリスのグリニッジ天文台を世界共通の経度の基準(経度0度、本初子午線)として定め、その2年後に日本標準時は「東経135度」と定められました。この時点では具体的にどこが標準時とか、どの都市がというのはありませんでした。
明石市では1910年に小学校の先生たちがお金を出し合って東経135度の子午線上に子午線標識を建てました。これが既成事実となっていき、その後の1960年(昭和35年)には135度上に明石天文科学館を設立し、「子午線のまち」「日本標準時のまち」と言われるようになりました。
明石天文科学館と子午線は明石市の中心部より少し東側にあります。明石天文科学館は小高い丘にあり、灯台のような姿で聳えているので、明石のランドマーク的な存在になっています。天文台からは明石海峡に架かる明石海峡大橋を眺めることができます。実際に架かっているのは神戸市だけど、天文科学館同様に明石の名を有名にしている建造物となるでしょうか。
明石天文科学館には時や天文に関する展示室やプラネタリウム、展望室などがあります。面白いものとしては、スペースシャトルコロンビア号で向井千秋さんと一緒に宇宙に行ったメダカの子孫の宇宙メダカがいます。
建物の外側には東経135度の子午線が記されています。造った当時の計測ではここが子午線だったのですが、GPS時代の宇宙計測では西に約120メートル程ずれています。とはいえ、それはそれ。ここに線が引いてあること自体が訪れる者にはうれしいことです。この線の真ん中に立つと、日本の真ん中に立った気分になれます。
この子午線のところにさりげなくあるのは漏刻という水時計の一種です。中国で発明されたもので、細い管を高さの違う水槽につなげ、水の流れを一定にします。一番下の水槽の水面の高さが上がる様子で時刻を読みます。
明石は「子午線のまち」と呼ばれています。呼ばれるには呼ばれるだけの理由があり、その計測の正確さにはこだわっていました。現在では手軽にGPSで測定できますが、昔は天文測定など時間と労力をかけて調べなければなりませんでした。そして計測を基に各所に子午線標識が建てられました。古いものは市の文化財にも指定されています。
一番有名なものはトンボの標識と呼ばれている子午線表示柱で、科学館の裏手にあります。なんでもあの戦艦ヤマトや銀河鉄道999の作品で有名な松本零士さんが、子どもの頃にこの標識を見て、宇宙に興味を持つきっかけになったとか言われています。
国道2号線沿いにも古くからの子午線標識があります。現在ではちょうどこの場所に郵便局ができ、明石子午線郵便局と名付けられました。ある意味、日本の真ん中にある郵便局になるでしょうか。頼めば郵便を出す際に記念の消印を押してもらえます。
4、国道の中心(日本国道路元標) 東京日本橋
古い諺に「全ての道はローマに通ず」といったものがありますが、日本ではどうでしょう。疑問にするまでもなく全ての道は東京、そして日本橋に通じていると言えるのではないでしょうか。実際、日本橋から国道1、4、6号線を中心に波状に幹線道路が伸びています。
では日本橋は凄まじい数の車が行き交うような交通の要所かというと、そうでもなく、現在の道路事情では旧道っぽい存在になり、東京の東西を行き来するのに日本橋を通ることはありません。東京に住んでいても車の場合だと意図しなければ通ることのない橋となっています。
日本橋といえば、浮世絵に描かれていたり、文明開化といった優美な橋。そういった印象がありますが、現在の日本橋は頭上を首都高速が走り、橋がそこにあることすら気が付かないような橋となっています。風流さが感じられなく、浮世絵の世界はどこへやら。安藤広重もビックリといったところでしょうか。
橋自体は明治後期に架けられた石造りの橋で、親柱の装飾や街灯などはとても立派なものが取り付けられていて、格式の高さを感じられます。橋に掲げられている日本橋の文字は最後の将軍であった慶喜候の筆によるものです。国の重要文化財にも指定されています。
近年では首都高を地下にして橋をすっきりさせようと計画されていたり、日本橋をライトアップしてみたりと、日本橋の存在を再認識するような動きもあります。
この日本橋には小さな公園が幾つか作られています。それぞれに何かしらのモミュメントがあるのですが、そのうちの一つは元標広場と名づけられていて(決して広くないけど・・・)、国道の元標(複製)が埋め込まれています。
その脇には主要都市までの里程標が石に彫られていました。青森まで736粁、下関まで1076粁といった感じです。この数字を見てその距離を実感できるような人、または日本全国をツーリングする者にとっては、この場所に立つ事で何かしらの感動を味わえるのではないでしょうか。
という事で、ここは絶対に譲れないと近くに停めていたバイクをよっこらしょと運んで、元標広場の前で写真を撮りました。比較的早い時間だったものの、何事かといった視線を浴びつつ(ちょっと恥ずかしかった)、これで日本の真ん中というか、日本の道路の原点を制覇したぞと一人で満足しました。
しかし、この元標をよくみると、複製と記されています。本物はどこだろう。調べてみると、道路の真ん中、橋の中央に目立たないように埋め込まれていました。うっかり見落とすところでした。交通量の少ない日曜日の朝でよかった・・・と、ちょっと失礼して道路の真ん中に行き、本物とご対面。今度こそ満足して撤収しました。
4号線を走り青森へ、1号線、2号線、3号線を走り鹿児島へ。東へ西へとバイクで旅してきた人間としては、日本橋は旅の始まりの場所であり、終わりの場所であり、通過地点でもあり、そして様々な感情が交差する場所でもあります。
5、地図と測量の中心(水準原点) 東京都
国会議事堂の真ん前に憲政公園があります。場所が場所だし、憲政公園という名前が重々しいので、一体どんな公園だろうと期待しつつ訪れたのですが、憲法や政治関係のオブジェが沢山あるような公園ではなく、緑の多い普通の公園でした。要は憲政記念館という、国会の組織や運営、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を展示している博物館に付随した公園というだけの事です。
政治が好きな人が喜びそうな公園ですが、この公園には少し変わった日本水準原点が置かれています。
公園内には小さいながらローマ遺跡にあるような建物があります。これが日本水準原点標庫で、この中に水準原点があります。水準原点とは一体どんなんだろう?興味がありましたが、建物を一周してみても中を覗く事ができませんでした。
何でローマ神殿のミニチュアのような建物なんだ。ちゃんと柱もついているし・・・。中がのぞけないので、建物の方に興味がいってしまいます。備え付けの説明書きには理由は書いてありませんでしたが、東京都の指定文化財に指定されていて、最後に「明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。」と締めくくってありました。
明治期の洋風建築って・・・。洋館ならともかく、こういった建物だとあまり貴重な存在に感じにくいものです。それよりもさりげなく柱の上の梁のような部分に菊の紋章と「大日本帝国」なんて彫刻がしてあり、その事のほうが今時珍しく、貴重な気がしました。
この水準原点には日曜日の朝に訪れたのですが、自転車の人やら、観光客やらと、なぜか人が多くてビックリしました。しかもチャリダーの人が自慢げに建物の前で自転車と写真を撮っていたりとちょっとした人気スポットとなっているようです。そんなに水準原点って有名なのだろうか?てっきりマイナーで誰もいない場所だとばかりに思っていたのに・・・。
ちょっと疑問に感じつつも、聞こえてくる会話は「ここが日本の中心なんだ。」「違うよ。水準点の中心だよ。」「水準点って何?」といったものでした。確かに国会議事堂が目の前にあり、そのまん前に○○点ってなものがあればここが日本の中心だと勘違いしてしまう気持ちは分からないでもないのですね。どうやらよく分からないけど小ネタ好きな人に連れられて来ちゃったという人が多いようでした。
では「水準点とは何?」という人の為に水準点に付いて簡単に書くと、水準点とは海面からの高さを記した点です。何に使うかというと、高さの測量を行うときの基準にするもので、全国の主な国道または県道等に沿って約2kmごとに設置されています。
その数は全国でおよそ2万余り。その親玉がこの建物の中にあるというわけです。測量に関わる人以外はあまり関係ないものですが、一等水準点と呼ばれるものなどは古風な石で作られているため、それなりに画像収集マニアがいたりします。興味あれば検索してみてください。
で、全国にある2万の水準点の頂点にある水準原点の役割はというと、各地に水準点を設置するにも地上のどこかに高さの基準になる点が必要となります。その基準となっているのがこの水準原点です。水準点の為の水準点というか、基礎といったところです。
ここの高さは24.4140mで、東京湾平均海面を基準にしています。明治24年に日本水準原点がつくられた時には24.5mだったようですが、その後関東大震災による地殻変動で少し地盤が沈下したようです。ちなみに我が国で最も高さが低い一等水準点は青函トンネル内の標高-256.5674mで、最高点は、野麦峠の標高1,672.47mです。
6、地図と座標の中心 日本経緯度原点 東京都
もう一つ東京には地図に関する中心があります。それは日本経緯度原点です。
日本経緯度原点というのは、日本の地理学的経緯度を決めるための基準となる点であり、測地座標の原点です。といってもピンとこないので、平たく書くと、この点を中心にして座標を計算して日本地図が作られたと考えれば分かりやすいと思います。
で、どこにあるかというと、東京タワー近くの麻布台という一等地。東京タワーのお膝元の飯倉交差点を六本木方面に登っていくと、ロシア大使館があります。その手前の路地を入って行くとアメリカンクラブがあり・・・、ってなんでロシア大使館のお隣にアメリカ関係の施設があるの?と、歩きながらアメリカの陰謀を感じざるを得ない配置がとても気になりました。
そのアメリカンクラブの先、どんづまりの奥に合同庁舎があったのですが、グーグルマップを久しぶりに見たら現在ではアフガニスタン大使館になっていました。その大使館の手前に小さな公園っぽい広場があり、そこに日本経緯度原点が置かれています。
はっきりいって分かりにくいです。というより、勝手に入っていいのだろうかといった場所にあります。しかもロシア大使館がすぐそばなので、警備の警官の多い事。迷って変な場所に入ったら機動隊の青いバスに乗せられて・・・。ということになるのではと、訪れるのにちょっと緊張してしまいました。
なぜにこんな場所に経緯度原点があるのかというと、この場所は明治7年から海軍の観象台として利用されていました。明治21年には帝国大学付属の東京天文台となり、そして明治25年に天文観測用の機械である子午環が設置され、その場所が経緯度原点と定められたのです。
しかしながら大正12年の関東大震災の時に子午環は崩壊。それにガス灯の普及で都心の空も明るくなり、天文台として天体観測に支障をきたし始めていました。これはいい機会だ?と思ったようで、三鷹に引越していきました。現在の国立天文台がある場所です。
残された子午環跡というか、経緯度原点に定められた原点は、地図製作においてとても重要な地点なので、そのまま国土地理院が引き継ぎました。そして金属標を埋め込んで経緯度原点とし、その後も地図の製作などに活躍したそうです。
現在も経緯度原点は使用されているようですが、GPS時代というか、宇宙観測が主流になった現在では国際的な共通規格である世界観測系という測量法が用いられているので、あまり活躍していないようです。
実際、大正7年の測量では、東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148だったのが、平成13年には東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572とGPSで観測した数値に変更されています。
7、皇居と江戸城
江戸時代の日本の中心は?と問われれば、江戸幕府の中心、江戸城をあげる人が多いと思います。徳川政権は江戸城で日本の政治の取り決めを行い、各地の大名を取り仕切っていました。また、この江戸城を中心に江戸の町は発展し、世界的にみても当時の世の中としては巨大な人口を抱える大都市でした。
現在の日本の中心地も東京と名を変えましたが、同じ江戸であることには変わりありません。ただ違うのは、江戸城の跡地が皇居となったことです。天皇は日本国民の象徴であるということから、皇居は日本国民の中心であり、戸籍の中心ともいうことができます。本籍は自由に選べるので、中には皇居の住所千代田区千代田1-1を本籍にしている人もいるそうです。気持ちだけは日本の中心に暮らしているといったところでしょうか。
また住所に関しても皇居は日本の真ん中・・・というのは大げさかもしれませんが、少なくとも東京の真ん中です。江戸時代は京都にお住まいがあったので、京都に向けて上町、中町、下町といった住所が割り振られていましたが、現在では皇居に向けて1丁目、2丁目、3丁目と割り振られている宿場町もあります。
皇居といえば堀を一周する皇居ランナーとか、桜の時期に身動きが取れなくなるほど花見客が訪れる千鳥ヶ淵など外のことがよく知られ、一般参賀など特別な時以外は皇居の中には入れないと思っている人も多いみたいですが、旧江戸城の中心部を整備した皇居東御苑は、皇居附属庭園として昭和43年から公開されています。休日は月曜と金曜で朝9時から閉園は季節によって違います。
東御苑には本丸、二の丸、三の丸の跡地、天守台の跡、番所、皇室のお宝が展示してある三の丸尚蔵館など見どころが多く、見ごたえがあります。東京観光にもお勧めです。
また、皇室の居宅部分の皇居にも入ることができる皇居参観も行われています。午前と午後に一回ずつ行われ、各回事前申請手続の定員200人、当日受付300人(先着順)となっています。
参考:宮内庁のサイト
8、東京にある真ん中
日本の中心はどこ?と単純に尋ねると、ほとんどの人が首都の東京と答えるのではないでしょうか。紛れもなく日本の文化、経済、政治の中心地であり、世界に名だたる町である事は確かです。
様々な文化活動の本部や中心が東京に造られているので、細かく見ていくと東京には様々な聖地と呼べるような場所が沢山あります。その中でも旅のネタとしてちょっとときめくような場所をいくつか紹介しています。
日本の政治の中心となっているのは国会議事堂です。国会議員が国民のために真剣に、時としてコントのように話し合い、国の政を決めている場です。
政治関係のニュースが流れるときには必ず映像で映るのでよく知られ、実物を見ると何かしらの感動があるのではないでしょうか。建物は昭和11年に建てられたもので、正面から見て左が衆議院、右が参議院です。
近年では両院ともに見学(参観)が行われていて、衆議院が8時半から16時半の毎時30分(土日は別時間)、参議院が9時から16時の毎時ちょうど(土日祝なし)で、当日予約なしで大丈夫です。ただし国会が開会中は見学時間が限られています。
日本の経済の中心といえば日本証券取引所のあるに日本橋兜町でしょうか。多くの取引が行われ、ここで日本の経済が回っている感じがします。
もう一つ経済の中心となるのが、同じく日本橋にある日本の中央銀行である日本銀行です。ここではお金の発行や管理、金利などの経済政策を行っています。きちんとした円という通貨がなければ経済が成り立たないことを考えると、日本の経済の本当の中心は日本銀行になるでしょうか。
日本銀行は本館(旧館)、新館、分館の3つの建物から構成されています。本館は明治29年に建てられた西洋式建築物で、その立派な建物から国の重要文化財にも指定されています。予約制になりますが、1日4回一般見学も行われています。
道路を挟んだ日本銀行分館内には貨幣博物館という面白い博物館もあります。貨幣の歴史や日本や中国などの古代から近代にいたるまでの貨幣が展示されています。入場料無料となっています。
行政の中心となると、省庁が集まる霞が関です。日比谷公園から国会議事堂にかけて多くの省庁のビルが並んでいます。
現在では近代的なオフィスビルばかりになっているので、そこまで感動的な風景となっていませんが、皇居に一番近いところにある法務省の旧庁舎は赤レンガ造りで趣のある建物になっています。
この法務省の赤れんが棟は、ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計によって明治28年に当時の司法省として建てられました。戦災で多くを焼失しましたが、戦後に復旧工事が行われました。平成の改修工事で明治28年の創建当時の姿に復原され、外観のみという変わった指定ですが重要文化財に指定されています。10~16時の間で館内を見学できます。
この法務省の庁舎と道路を挟んだ前は警視庁の庁舎です。事件などの報道や警察ドラマ、名探偵コナンなどのアニメでよく出てくるので、巨大なアンテナのある建物の姿に馴染みのある人が多く、こちらも人気となっています。ここは当然というか、中には入れません。
参考サイト:法務省ご利用案内
国道の中心は日本橋でしたが、鉄道の中心となるとやっぱり東京駅でしょうか。特急や寝台列車が走っている時代には、東京と上野で機能分担がされていましたが、今では東京駅に集約され、多くの新幹線、在来線が発着しています。
駅の規模、ホームの数、運行本数、乗り降りの乗客数と全てにおいて日本を代表する駅だと言えますが、駅周辺には丸の内、八重洲、日本橋と日本の経済を代表する地名が並び、皇居までは真っすぐイチョウ並木が続いていてと、日本の真ん中にある駅、日本の中心の駅といった雰囲気があります。
東京駅を特徴づけているのは赤レンガ造りの丸の内口駅舎です。1914年に辰野金吾らが設計し、竣工されました。戦災によりドームや屋根が崩壊してしまい、戦後になって復旧工事が行われたのですが、予算不足のため3階建ての駅舎を2階建て駅舎として再建しました。
2007年から当時の姿を再現すべく工事が行われ、三階部分と、ドームが復活しました。赤煉瓦の南北335mにわたる駅舎にドームが加わり、とても美しい存在となりました。国の重要文化財にも指定されています。
9、日本の境目 中央構造線と関ケ原
地形が真四角とか、円なら真ん中も定めやすいのでしょうが、複雑な形をしているので、距離や重心、緯度、或いは気分的、雰囲気、目の錯覚等など様々な要因で真ん中の位置が定義できてしまいます。また地図で見て明らかに真ん中だと感じても、人口の多さ、経済の強さ、文化の強さなどで真ん中の場所が移動してしまう場合もあります。
そこで発想を変えると、真ん中ではなく、2つの境目がしっかりとしていれば、そこが真ん中だともいえるのではないでしょうか。そういった観点で見ていくと、地質の境目、断層というのも面白い存在です。
地質の境目として有名なのが構造線です。断層の大規模なもので、これを境に土地を構成する岩石の種類が変わります。構造線の中でも日本を大きく分断しているのが中央構造線で、九州の八代から、徳島、伊勢、赤石山脈、諏訪の南、群馬県の下仁田、霞ヶ浦と日本列島を千キロ以上も横断しています。
日本の分かれ目という点では、日本列島を横断している中央構造線よりも糸魚川から静岡を縦に分断しているフォッサ・マグナ(糸魚川―静岡構造線)の方がふさわしい感じがします。ただどちらにしても地質的な分かれ目というのは、きっちりとした線が引かれているのではなく、微妙な痕跡が残るだけです。
大きな構造線上には子午線のように線上にモニュメントがあったり、博物館があるような場所もあります。その中でも知られているのが南アルプスの主峰赤石岳の山麓にある長野県の大鹿村です。
村は中央構造線上にあり、村の河川敷、或いは付近の山間部では断層が表面に出ている露頭を見ることができます。構造線のほぼ真上に建っている村営の大鹿村中央構造線博物館では、中央構造線と岩石標本の展示も行われています。
あまり読んでいて実感はないかもしれませんが、実際に日本を分断している巨大な構造線に立った時、子午線に立った時のような日本の東西の分かれ目にいる、真ん中に立っているといった気分になれます。
参考サイト:大鹿村中央構造線博物館
日本の東西の分かれ目といえば、一番知名度のあるのが岐阜県の関ケ原です。関ケ原では1600年に西軍と東軍とに分かれ、日本史上最大の内戦と呼ばれる関ケ原の戦いが行われました。俗に言う「天下分け目の大いくさ」で、これに勝利した徳川家康により江戸幕府が開かれ、徳川の世の中になります。
戦のあった場所は関ケ原古戦場として少し整備されていますが、元々何もない場所だったから大戦の合戦場となったわけで、現在でも特に何もありません。古戦場の石碑が建っていたり、案内板にどこに誰が陣を張ったとか、本陣だった場所とか、記されているぐらいで、地形から合戦のイメージを湧かせるしかありません。スケールが大きすぎてあまり楽しめない人も多いかもしれません。
この関ヶ原ですが、実は現在では味の境目となっています。よく言われる関西風と関東風のうどんの出汁の違い。関東の人から見ると関西の味は薄くて甘い。関西の人から見ると関東の味は濃くて辛い。関東から西日本に引っ越しした身からすると、うどんに関してはまだましですが、蕎麦になると結構深刻です。
うどん、蕎麦といえば、日清のどん兵衛やマルちゃんの赤いきつねと緑のたぬき。これらの商品も西と東で味が区別されていて、その境界が関ケ原付近とのことです。関ケ原には何か目に見えない日本の境目とか、真ん中パワーがあるのかもしれません。
旅の雑学のエッセイ日本の様々な真ん中 風の旅人 (2020年3月改訂)