風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ 旅や旅人にまつわるエッセイ ~

§15、旅と「百聞は一見に如かず」

~ 「百聞は一見に如かず」 ~

「百聞は一見に如かず」という言葉があります。友人などに旅で見てきたことや珍しい話をすると、「百聞は一見にしかずっていうもんね。実際に見てきた人の話は説得力があるよね。」などとよく言われます。とても旅にふさわしい言葉であり、旅の為につくられた言葉のように感じたりもしますが、この「百聞は一見に如かず(百聞不如一見)」という言葉は、漢書の趙充国伝の一文として書かれているのが広まったものです。

登場するのは戦争の場面で、趙充国という将軍が「百聞は一見に如かず。前線の様子がよく分からない。実際に自分が馬で行って確かめて戦略を立てたい。」といった流れで使われています。旅で使うのに慣れていると、ちょっと違った印象を受けてしまいますが、旅でいうなら「百聞は一見に如かず。隣の国には雲間でそびえるような塔が立っていると人々が噂をするが、実際に自分で見てきて確かめたい。」といった感じでしょうか。

言葉の意味は説明するまでもないかと思いますが、他人から何度聞いたところで、実際に自分の目で見て事実を知るという事には及ばない。シンプルには「聞くことは見ることに及ばない」というのが正しい解釈となるようです。確かにその通りで、実際に旅をして見た知識というのは人から聞いた噂よりも、本で読んで得られる知識よりも真実味があり、深いものであるはずです。

だから自分自身の足で現地に向かい、そして見聞して歩く旅にふさわしい言葉と感じるのですが、情報化が進んだ現在の旅の事情、というより現在の世の中では少し微妙な感じのする言葉になってしまった気もします。ここでは旅においての百聞(間接的に知ることと)と一見(実際に見ること)について書いてみました。

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ナスカの地上絵の写真

旅の情景スケッチ16

ナスカの地上絵

困ったことに上空からでしか見えません。

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~ 旅人の知識 ~

旅で見聞を広めてくる。旅で見聞が広がった。こういった表現をよく聞きます。「旅は真の知識の大きな泉である。(ディスレーリ)」「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり。(アウグスティヌス)」「長生きするものは多くを知る。旅をしたものはそれ以上を知る。(アラブの諺)」といったように旅で得られる見聞の重要さを表した言葉は世界中にあります。

確かに色々なものを見て歩くことは、見て歩いた分だけの知識の蓄積になります。それに日常と違ったものを見たり、体験したりする事は人と違った価値観や新たな発想にももつながります。一般的に言って多くの知識の中から選択肢を選べる方がよりよい選択を行える事にもつながるので、やはり知識量と共に他の人と違った知識や価値観は大切だといます。そういった意味で旅の見聞というものが重要視されているのも納得できます。

特に現在のように情報化が進んでいなかった時代には、確かな情報が少なく、実際に見てくるのが一番といった考え方が一般的だったことでしょう。Aという遺跡とBという遺跡の素晴らしさや大きさをちゃんと比較できるのは実際に訪れた人だけでしょうし、異国の宗教や文化、食べ物などを紹介できるのもやはりその土地を訪れた人だけだったに違いありません。そういうことを考えると旅人であったり、隊商隊だったり、冒険家や学者などといった異国の地を訪れる機会の多かった人の見聞や知識はとても魅力的で、貴重な情報となっていたのも納得できます。

実際、こういった時代には世界を知る事が大きな知識に繋がると考え、異国の地の知識を持った旅人が重宝され、手厚くもてなされていました。しかしながら情報化が進み、交通手段が発達し世界が狭まった現在では、それはもはや過去のこととなってしまい、旅人とはお金を落としていく貴重な存在というのが現状でしょうか。それは海外だけではなく、日本でも爆買と呼ばれる中国人に熱烈歓迎中です。中には慣習的に今でも旅人をもてなすような地域もありますが・・・、やはりごく一部です。

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メキシコのピラミッドの写真

旅の情景スケッチ17

メキシコのピラミッド

曲線が美しい独特のピラミッドです。

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~ 情報があふれる現代 ~

現代は情報化社会と言われ、様々な情報で溢れています。もちろん誤った情報も多くありますが、正確な情報も多いのが昔と違うところです。その情報を吟味する術があるのも強みです。例えばエジプトのギザピラミッドとメキシコの太陽のピラミッドはどちらが大きいといった事は、遺跡の高さや寸法が記された資料を捜せば、わざわざ両方の遺跡に行かなくても分かります。エジプトにはどのようなピラミッドが現存しているかもわざわざ行かなくてもピラミッドのドキュメンタリーDVDなり、遺跡の図鑑なりを調べれば分かってしまいます。

そのため、単に知識を得るだけなら本、テレビ、インターネットなどを見ることで、現地に赴かなくても知ることができてしまいます。特に最新の映像技術には目を見張るものがあり、巧みなカメラワークや画面編集、雰囲気のあるナレーションによって家にいながらにして、外国の町や遺跡を訪れた気分になれたり、また一般の人が普段入れない寺院の奥部などの映像も流してくれ、わざわざ訪れるよりもテレビで見るほうがいいのではないかと思うこともあります。

そういったことを考えると、日本で真面目に調べた人の方がなんとなく世界を旅行した人よりも博識になれるかもしれません。昔は「百聞は一見に如かず」と言われましたが、正確な情報が手軽に手に入るようになると、百聞が、いや一聞ですら一見と同じぐらいの価値があるって事もありえるでしょう。そう考えてしまうと百聞もあったら一見と同じぐらいの価値が得られそうなので、わざわざ見に行かなくてもいいのでは・・・なんて思ったりするのではないでしょうか。

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ブルガリアのネセバルの写真

旅の情景スケッチ18

ブルガリアのネセバル

小さな島のような町で町並みが美しいです。

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~ 実際に見ることと単に知ること ~

しかし世間では未だに「百聞は一見に如かず」と言いますし、最初に書いたように私自身よく言われます。「見る」と「聞く」。実際に旅に当てはめるなら「見に行く事」と「調べること」になるでしょうか。確かに情報として知るだけなら図書館でもドキュメンタリーでもインターネットで行うことができます。情報化社会の世の中では雑学程度の知識ならば昔の人々が言うほど大げさな違いはなくなってしまったのは事実かもしれませんが、所詮は雑学程度とも言えます。

例えば、ある人が「この前南米のマチュピチュに行ってきたよ。」と自慢するとします。それを聞いた人が、「あ~あの空中都市ね。この前テレビでやっていたけどなんか凄いところにあるよね。テレビでは・・・」とナレーションで説明していた歴史などの解説を説明したとします。行った人は自分よりも詳しいではないか。しかも自分が気がつかなかった彫刻についても知っているし・・・・とビックリしてしまいます。

でも、実際に行った人は標高3000mの遺跡散策がどれだけきついか、その高さで斜面のきつい段々畑を歩くのはどれだけきついか、その遺跡を訪れるのにどれだけ大変な思いをしたのか、挙げると切りがないのですが、身をもってその遺跡の立地の凄さと、それを造った人々の凄さというものを実感できているのです。

とりわけ苦労して訪れた場所の実体験はなかなか脳から消えないものです。だから数年経った後の記憶の残り方も違ってきますし、単なる知識としてだけではなく、様々な外的な実体験も記憶に残るので、他のことにも応用しやすいといえます。いわゆる生きた情報とか、経験いったところでしょうか。ただネットで調べて知ったのは、きちんと時代背景を学ぶことでは差があり、また学ぶことと、実際に見るという体験名は世間に言う経験の差となりやすいです。

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ネムルト・ダウの首像の写真

旅の情景スケッチ19

ネムルト・ダウの首像

山頂付近に石像の首が並んでいます。

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~ 実際に見ることの意義 ~

別の例えでいうならスポーツのテレビ観戦と競技場での観戦はどうでしょう。テレビで見た人は画面にアップで映された選手の技術の凄さ、或いは表情などに感動するかもしれませんが、競技場で見た人は観客のどよめきなどといった臨場感とともに試合を見ているので、その試合自体の感動をテレビで見ていた人よりも深く、長く記憶に留めておく事ができるはずです。臨場感のない特等席がテレビといったところではないでしょうか。

結局のところ実際に見ることと、他の情報源から情報を得ることではどうしても越えられない壁があります。それはテレビの前や机の上では自分の目でその場の状況を見て、観察して、考えて、行動するという事ができません。できるのは与えられた状況からの推測だけです。

だから知識としては百聞と一見は等しく成りえる場合がありますが、一見には実際にその場で考えて見るといった体験が含まれる分、奥が深いと言えます。実体験に基づく見聞は何事にも代え難いというのは、やはり現在の情報化社会においても言いえているといえるのではないでしょうか。特に経験の差と言われる人生経験豊富なと言われる部分です。実際に経験することというのはそれを自分で解釈し、理解することで自分の知識の一部としているものです。そして自ずと経験豊かな人間となれているものなのです。

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<旅や旅人にまつわるエッセイ §15、旅と「百聞は一見に如かず」 2015年9月初稿 - 2015年12月改訂>