風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ 旅や旅人にまつわるエッセイ ~

§11、旅の名言、格言、諺集2

ここでは先人などが残した旅にまつわる名言、格言、諺などを集め、私なりに解説を付けてみました。あくまでも自分の経験を基にした個人的な解釈なので、先人達が言いたかった事と全く見当違いな解釈になっているものもあるかもしれません。その場合は笑いながら読んでください。そしてこっそりと正しい解釈を送ってくださると助かります。

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>

この言葉は意味よりも有名な松尾芭蕉の「奥の細道」の序文に書かれている言葉という事でよく知られているかと思います。草加せんべいで有名な草加宿に百代橋があり、その脇にこの句碑が彫ってある石碑があるので興味があれば訪れてみるといいかと思います。さて、松尾芭蕉といえば隠密だったとか、色々とその存在目的について言われていますが、偉大な旅人であり、俳句人であったのも確かかと思います。今でも松尾芭蕉の俳句に魅せられて奥の細道を巡る旅をしている人も多く、その功績は計り知れないように思います。

この言葉の意味は、「月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであって、過ぎ去っては新しくやって来る年もまた旅人のようなものである。」といったものです。この言葉の意味を知った時、芭蕉は隠密とかよりもやはり旅人なんだなと感じました。私自身、ホームページのタイトルを風の旅人としました。それは旅人を風とかけて、砂漠の砂に描かれる風紋のように次々とくる風、旅人により模様が変わっていくといった意味です。そう思ったのは、出会いと別れを頻繁に繰り返すような旅をしていたからです。自分は地元の人の心に何を残したのだろうか。一時の風紋のような模様を残したかもしれないけど、時が経てば薄れてしまうだろうし、別の旅人が来たらあっという間に消えてしまうかもしれない。また他の出会いがあればお互いそういった思いは消えてしまうかもしれないなといったように人との出会いに関する事が一番旅での出来事で印象に残っています。そういった旅人の心理というか、本質を月日の流れにかけたのがこの言葉かと思います。出会いにしても月日にしても新しい事が起きれば古い事は薄らいでしまうものだよといった至極当たり前である自然の摂理を旅人と掛けているところは芭蕉が旅人である証かなと思えてなりません。

「全ての旅行はその速度が正確に定まってくるにつれ退屈になる。」 <ラスキン>

旅というのは不確定要素が多いのが魅力です。当然の事ながら旅とは今暮らしている場所とは違う土地を訪れる行為なので、現地の気候(天気)はどうだろう?から始まり、海外の場合は通貨レートはいくらだろうか?物価はどの位だろう?治安はいいのだろうか?などと調べ始めます。この時がある意味不安と期待が混ざっていて一番楽しい時かもしれません。そして実際に旅に出ると、最初の数日は見るもの行う事の全てが新鮮で、新しい情報が次々と脳みそに送られ、慌ただしく時間が過ぎていきます。この頃は日々が適度な緊張感で満たされ、充実感で一杯なはずです。しかしながらその国の習慣や旅自体に慣れてくると、目新しさは少なくなり、日々の行動もスムーズに運ぶようになり、旅での生活が単調になってきます。更に時間が過ぎると、今度はせっかく日々の単調な生活から抜け出して旅をしているのに、ここでもスケジュールどおりに動いている自分に疑問を覚えるようになってきます。そうなってくると、何で観光をしているのだろう?と疑問がわいてきて、観光意欲もなくなり、観光が単に消化作業になってきます。毎日の新鮮味がなくなっていくと、動くのも億劫になってきます。これが沈没の始まりです。・・・・と、ここまでくると極端な例ですが、旅とは脱日常が心情なので、旅が日常の感覚に近づいてしまうと、いや旅をしていること自体が日常と化すと「旅」という感覚がなくなってしまうというのは事実です。日常というのは、比較的正確に時が流れ、繰り返すことです。ラスキンの言葉は、旅があまり長くなったり、習慣化すると、旅も日常となってしまい退屈してしまうということだと思います。私自身も経験があるのでこの言葉には共感できます。

「旅は真の知識の大きな泉である」 <ディスレーリ>

「世界は一冊の本にして、旅せざる人々は本を一頁しか読まざるなり」 <アウグスティヌス>

「長生きするものは多くを知る。旅をしたものはそれ以上を知る」 <アラブの諺>

「百聞は一見に如かず」 <中国の諺(漢書)>

情報社会といわれる現代、単に知識を得るだけなら本、テレビ、インターネットなどで、旅に出ずとも世界の知識は身につきます。特に最新の映像技術には目を見張るものがあり、巧みなカメラワークや画面編集、雰囲気のあるナレーションによって家にいながらにして、外国の町や遺跡を訪れた気分になれたりします。また一般の人が普段入れない寺院の奥部などの映像も流してくれ、わざわざ訪れるよりもテレビで見るほうがいいのではないかと思うことがあります。そういったことを考えると、日本で真面目に調べた人の方がなんとなく世界を旅行した人よりも博識になれるかもしれません。

しかし世間では「百聞は一見に如かず」とよく言います。それは洋の東西を問わず、世界中で言われ続けた言葉のようで、似たような言葉が多くあります。これはどういう事でしょう。私は写真を趣味にしているので特に感じるのですが、人それぞれ目線というものが違います。それは単純に背の高さであったり、興味、感性の違いによって起こるものです。だから同じ見るにしても他人の目線で見ると、違和感を感じたり、また別の発見があったりします。そういった事を考えると、実際に目で直に見た場合と他人によって編集させられた画面を見せられるのとでは記憶の残り方が違ってきます。自分の目で見る場合、そこには無意識のうちの観察力が働くからです。だから数年経った後の記憶の残り方も違ってきますし、単なる知識としてだけではなく、実体験として記憶に残るので、他のことにも応用しやすいといえます。

ただ記憶の残り方が違うだけなら、忘れかけた頃にまた録画しておいたドキュメンタリーを見直せばいいではないかといった事になりそうですが、もう一つ大切な事があります。それは実体験に基づいた知識は何事にも代えられないものなのです。例えば、ある人が「この前南米のマチュピチュに行ってきたよ。」と自慢するとします。それを聞いた人が、「あ~あの空中都市ね。この前テレビでやっていたけどなんか凄いところにあるよね。テレビでは・・・」とナレーションで説明していた歴史などの解説を説明したとします。行った人は自分よりも詳しいではないか。しかも自分が気がつかなかった彫刻についても知っているし・・・・とビックリしてしまいます。でも、実際に行った人は標高3000mの遺跡散策がどれだけきついか、その高さで斜面のきつい段々畑を歩くのはどれだけきついか、その遺跡を訪れるのにどれだけ大変な思いをしたのか、挙げると切りがないのですが、身をもってその遺跡の立地の凄さと、それを造った人々の凄さというものを実感できているのです。とりわけ苦労して訪れた場所の実体験はなかなか脳から消えないものです。別の例えでいうならスポーツのテレビ観戦と競技場での観戦の違いといったところでしょうか。テレビで見た人は画面にアップで映された選手の技術の凄さなどに感動するかもしれませんが、競技場で見た人は観客のどよめきなどといった臨場感とともに試合を見ているので、その試合自体の感動をテレビで見ていた人よりも深く、長く記憶に留めておく事ができるはずです。臨場感のない特等席がテレビといったところでしょうか。

もっと本能的な例えを挙げるなら、テレビでアフリカの子供が飢えに苦しんでいる報道がなされていたとします。募金をして助けようとする人がどれだけいるでしょう。冷めた目で見ればテレビ局のやらせではないだろうかとか、一部の人だけを極端に映しているだけだといった事を考えてしまいます。でも、もし目の前で飢えている子供がいたら多くの人が助けようとするのではないでしょうか。これは極端な例かもしれません。でも自分の目でその場の状況を見て、観察して、考えて、行動するという事ができるのは実体験の場合だけです。とはいいつつも、情報化社会の世の中では雑学程度の知識ならば昔の人々が言うほど大げさな違いはなくなってしまったのも事実かもしれません。そしてそれが当たり前の世の中になってしまったのも事実です。そういった事が当たり前ではなかった時代には、世界を知る事が大きな知識に繋がると考え、異国の地の知識を持った旅人が重宝されていましたが、情報化が進んでいる国ではもはや過去のこととなってしまったようですね。慣習的に今でも旅人をもてなすような地域はありますが・・・。

「他国を見れば見るほど、私はいよいよ私の祖国を愛する」 <スタール夫人>

この言葉を実感している人は結構多いのではないでしょうか。我々日本人で例えるなら、海外に出ると引ったくり、恐喝、スリなどに絶えず注意しなければならなく、なかなか落ちついて歩けません。海外に出ると日本ほど安全な国はないと感じます。また食べ物の違いも重要な要素となり、日本を出て3日目にはあっさりとした日本食が恋しくてしょうがなくなる人もいます。日本ほど食事が美味しい国はないと感じる人も多いはずです。更には宗教や政治、経済の違い、文化や風習の違い、言葉や顔立ちの違いなどといった事は、最初は新鮮に思えても日が経つとうっと惜しく感じてくる場合もあります。そうして思うのが、慣れ親しんでいる環境が一番だ。食事も、習慣も何の心配や気遣いが要りません。実際に海外で嫌な体験や辛い体験をしてしまうと、更にこの思いは大きいみたいです。日本のことを例えて書いてきましたが、こういったことは日本で暮らしている外国人や、日本を旅行中の外国人旅行者にもあてはまり、同じようなことを思っている人が多いはずです。祖国というのはそれぞれの人にとって、心の奥に存在するとても大事なものです。

それと同時に祖国に対する疑問を持つかもしれません。例えば24時間買い物ができるコンビニや自動販売機は本当に必要なものなのだろうか。便利すぎるということはよくないのではないだろうか?不便な土地を旅行した後にはそう感じるかもしれません。煩雑な国から戻ってくると、きれいに並んでエスカレーターに乗っている人々が自動車の部品のように思えて気持ち悪く感じるかもしれません。その他、今まで疑問に感じることなく行っていた冠婚葬祭などの風習や祭りに関してもどういう意味があるのだろうかなどと考えるようになってしまうかもしれません。他の国を訪れることは、ぬるま湯に浸かっている状態から抜け出して日本の良い部分や悪い部分を見極めるいい機会になると思います。そして日本というものの善し悪しを考えるってことは、日本らしさの再発見、再認識へつながり、更に日本を深く愛するきっかけになるかと思います。

「旅をすることは、他国に対する間違った認識に気づくことである。」 <クリフトン・ファディマン>

この言葉を実感したという人は多いのではないでしょうか。我々日本人は基本的には単一民族で日本の文化に沿って生きているのが当たり前です。あまりにも日本の文化が強すぎるので、日本に住む外国人も日本に溶け込むために日本の文化を習うほどです。こういった社会なので普段の生活であまり他国の人に対して変な意識をすることが少ないです。そのためかバラエティー番組で紹介される極端な例などを信じてしまったりしています。こういったことは外国人が日本に来て忍者や侍がいないというのと一緒のレベルかもしれません。

こういった笑える話はまだいいのですが、実際に多くの人が知るニュースというのはテロだったり、内戦だったり、大きな犯罪だったりします。また外国人の指導者の発言などは大きく取り上げられて、何人はけしからんといった考えを持ってしまうこともあります。しかしながらそういったものは極端な例なのです。指導者にしても政治的に発言しているだけなのです。そういった悪いイメージを持ちながらその国を旅をしてみると、その国で暮らしている人は実はいいやつではないか。日本で報道されているのとは全く違ったイメージを持つことなります。お互いを知ること。そして尊重すること。とても大事なことです。交換留学や国際交流など盛んに行われ、多くの外国人観光客が訪れるようになると、つまらない誤解が解け、平和な世の中に一歩近づくのではないでしょうか。

「旅は私にとって、精神の若返りの泉だ」 <アンデルセン>

童話で有名なアンデルセンの言葉です。私自身まだそんなに年を取っていないので、想像でしか書けませんが、旅をしていると時々ツアーや個人旅行をしている老夫婦に出会います。全てがそうとは言いませんが、皆さん大層張り切って行動されていて、年齢以上にパワーを感じる事もあります。旅に出ると若返るというか、気力にあふれているというか、とにかく元気だなと思ってしまいます。まあ旅に出る事自体が元気な証なのですが・・・。恐らくこういった事をアンデルセンは言葉にしたのではないでしょうか。

長い事人生を送ると日々の生活がまんねりになってしまうと聞きます。旅に出ると日常のまんねりの生活から抜け出して、新たな自分や、今まで気がつかなかった物の考え方を見つける事が出来るものです。新鮮な考え方をするようになると、長い事連れ添っている旦那や女房も新鮮に見えるのでしょうか。新婚旅行のカップルのように仲良く旅行をされている老夫婦を見ると、時間空間の旅をしているのではとか、旅とは若返る不思議な魔力を持っているのかもしれないなと思う事もあります。科学的というか、現実的に考えてみると、旅というものは限られた時間で行うものなので、「今日はあれとこれをして、明日はあそこに行って・・・」と、あれこれと気を張り詰めて行動します。だからいつも以上に脳の細胞が活性化され、また普段よりも動く事により血行がよくなり、体全体が生き生きとしてくるのではないでしょうか。もちろん未知への探求心、好奇心といった気持ちは心の活性化につながります。それはいわゆる欲という種類のもので、年を取るとともに欲、願望といったものは減少するようです。その欲の部分が活性化すれば若い心を手に入れるという訳です。ある程度習慣的に旅を行えば心も体も生き生きとし、高価な肌老化防止薬もいらないかもしれませんね・・・、はてはて。

「恋愛はまさに旅することだ」 <英国の作家D・H・ロレンス>

「結婚は旅の終焉だ」 <???>

旅の楽しさは、目的地に到着することよりも、その過程にあるというのは世界中でよく使われる言葉です。旅では見知らぬ土地の風景や食事、未知の人々との出会いにわくわくするものです。その過程を恋愛と表現している作家がいます。とても面白い発想です。旅は現実逃避を含んだもの。自分の感情を相手の心の中に入り込ませて、相手の心の中を旅していく甘い時間。そしてその終焉は現実に戻る別れなのか、結婚なのか。別れならまた当たらした美が始まりそうですが、結婚の場合にはそこで旅が終わり、家族という大地に根を下ろして暮らすことになります。「結婚は旅の終焉だ。」誰かがいっているのか知りませんが、結婚すること、厳密に言うなら子供ができたときに旅人は旅人で亡くなるのではないでしょうか。

「旅のよい道連れは旅路を短くさせる」 <ウォルトン>

「旅は道連れ、世は情け」 <日本の諺(江戸いろはカルタ)>

「旅は情け人は心」、「よき道連れは里程を縮める」  <日本の諺>

「三人行けば則ち一人を損う」 <易経>

「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。」 <仏陀>

一人で旅するというのはある意味寂しいものです。孤独との戦い・・・となる人もいれば、孤独とうまく折り合える人もいるので、一人旅がどうのこうのというのは人それぞれといったところかと思います。ただ一人旅というのは、誰にも気を配ることなく自分のペースで旅をできるので、ある意味気が楽であり、また旅を真剣に行うには色々と効率的ともいえます。特に撮影旅行ともなると忍耐の連続なので、他人を付き合わせてしまうと、退屈していないだろうか、怒っていないだろうか、早めに切り上げなければ・・・と気になって集中できません。ですから私自身一人旅自体は嫌いではないのですが、ただ夕食の時が一番淋しさを感じてしまいます。これは旅と限らず一人暮らしにも共通する事かもしれません。一日の旅を終えて、さて一日の終わりの夕食だ。今日一日体験した面白い出来事や感動した景色について話し合える人ががいたらな。う~ん、誰かに話したくてたまらない。そういった思いと、周りのテーブルではみんなが楽しく食事している中で、ぽつんと一人で食べる寂しさが混じりあい、非常に哀愁が漂った感情になってしまいます。まれに同じ宿に泊まっている旅人と一緒に食べてに行く事もありますが、大概一人なので、せめて夕食のときだけは毎日気の合う話し相手が欲しいと思いました。

食事を例に挙げてみたのですが、その他の事でも相棒がほしいと思うことがあります。何か困った事が起こった事に、すぐ横に相談できる相棒がいたならどんなに心強いでしょう。頼りにならなくても、いてくれるだけでもいいから・・・などと友人の顔などを思い浮かべる事もあるかもしれません。でもトラブルに巻き込まれて一人で途方に暮れている時など、通りがかりの人などに助けられて意外と何とかなってしまうもので、「世は情け・・・」なのは世界共通なんだななどと思ったりもします。結局のところ容姿、性格は違えど同じ人間なので、少なからず同じような心を持っていたりするものです。また、陸路で国境を越えるような困難な場面のときも「旅は道連れ~」といった感じで相棒がいれば心強いし、飛行機や長距離バスなどの長い道中も、話し相手がいれば退屈せず、移動時間も短く感じる事でしょう。また手持ち無沙汰の時間も話し相手がいれば退屈をしないだろうし、また自分の趣味だけではなく、相棒の趣味の分野にも興味を広げれば行動範囲も広がり、旅もいっそう楽しくなるに違いありません。しかし都合良く求めるだけでは人間関係はうまくいかないものです。相手を思いやったり、助け合うことも必要になってきます。また、易経にあるように「三人行けば則ち一人を損う」というように、3人になると一人は除け者にされやすくなってしまいます。乗り物の座席も二人がけのものが多いし、宿もベッドが2つのところが多いとまあ、せっかくの旅も途中で友人と仲違いしてはつまりません。それ以上の集団になってくると、修学旅行のような旅となり、ワイワイと楽しく時間はあっという間に過ぎていくことでしょう。しかしながら、旅を楽しむよりも集団行動を楽しむ事の比重が高くなるように感じます。

しかしながら、誰でも旅の連れに選んでいいのかというとそれは微妙なところです。誰かいることでその場は心強く感じる事もありますが、連れとして行動するならやっぱり趣味趣向や性格が似ていないとなかなかうまくいくものではありません。それは人生でも同じ事です。友人関係、恋人関係でもある程度自分の理想の人でないと長く続かないものです。それに友を選べといった感じで、いい仲間とつきあえば自分も仲間と切磋琢磨して高められるけど、逆に悪い仲間とつきあえばその色に染まってしまいます。若い女の人が一人暮らしを始めて寂しさを紛らわすために誰でもいいからと男を作った場合、つまらない男に引っかかって生活が・・・といったことは旅とよく似ている話かもしれません。仏陀の言葉にある「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。」などは旅でも日常でもいい得ているのではないでしょうか。

旅の場合は人生の縮図といった感じで、時間が限られています。限られた時間を最大限有効に使うのはどうしたらいいのだろうか。旅を出る前にそれを考慮に入れて計画を立てるはずです。しかしながら旅の途中で愚かなもの・・・というのは語弊がある感じがしますが、例えばやる気のない人と出会ってしまい、その人と一緒に行動することで時間を無駄に消費してしまい足を引っ張られることがあります。何かしていて時間を消費するのと、何もしないで時間を無駄に消費するのは違います。旅で得られること。それは「旅の生産性」という言葉がふさわしいでしょうか。それが一人で旅するよりもマイナスになるようでしたら一人で行動した方がいいのです。だから相手を見て、自分の行動力で自分の行動ペースまで引っ張れないと思う人とは行動をともにしない方が賢明です。逆に自分がためらって行くことのできない場所へ簡単に行けてしまうような行動力のある人には頼み込んでもついて行くべきです。もちろんただついて行くだけでは駄目です。その技術や行動力を学び、少しでもその人に追いつく努力をしましょう。それが仏陀の言う旅での相棒の選び方となるはずです。

旅に出ると沈没地と言われる旅人の吹きだまりのような場所があります。そういった場所で停滞している人たちには必ず仲間がいます。一人では沈没しようにも退屈なだけだからです。そういった人を見ていると、当てもなくだらだらとした人間がつるむと足を引っ張り合って沈没の極値、泥沼状態になってしまうものなんだなと感じます。もちろんそれはワーキングホリデーなどの留学でも同じ事がいえます。やる気のない人間が何人集まってもだらだらとする回数が増えるだけ。その中に入るのも一人で旅を続けるのも自由。それが旅です。でも逆にやる気のある人間が集まってしまった場合はどうでしょう。とりわけ旅人は自我の強い人が多いので、船頭が多くて何とやらといった感じでこれまた収拾の付かないことなってしまいます。そして最終的には少人数のグループに分かれてといった事で落ち着くケースが多々ありました。なかなか旅人というのも難しい存在ですね。

「あまりに旅に時間を費やす者は、最後には己の国でよそ者となる」 <ルネ・デカルト>

「郷に入れば郷に従え」 <日本の諺>

旅人の中には「日本は自分に合わないから旅しているんだ」と言う人もいます。でも実際のところ、旅にのめりこみ過ぎて日本の文化に馴染めなくなってしまった人も多かったりします。こういった事は旅に限らず、留学や海外出張にも同じことが言えると思います。日本では日本文化に基づいて人々が生活しています。それを長い海外生活から帰った人間が、「やれ国際化だ。やれ海外ではこうだ。」と主張しても、「君、ここは日本だよ。日本語でしゃべってね。」といった感じで白い目で見られてしまいます。ただ最近では昔ほど異文化との垣根が高くないのも事実で、食事にしてもパン食が浸透していたり、マイナーな国の料理店も多く見かけるようになりましたし、また色んな国の文化や情報がテレビで紹介されていたりもします。でもやはり郷に入れば郷に従えという諺が示すように、日本では日本の価値観で物事を考え、日本の価値観で行動するのが日本で日本人らしく暮らすコツではないでしょうか。もちろん逆に海外へ出たらその国の価値観や宗教観に従わないとトラブルの元になります。その時に「日本では・・・」と言っても誰も聞いてくれないのと一緒です。そういった事がその土地で暮らしたり、訪れたりするエチケットみたいなものなのです。

「旅の恥はかき捨て」 <日本の諺>

恥というものを重んじる日本文化ならではの諺かもしれません。他の国ではこんな言葉はないと思えますが、どうでしょうか。この言葉の意味は、旅先ではどこの誰だかわからないので、少々無様なことをしても恥にはならないから大丈夫といったところでしょうか。よく聞く言葉なので、とりわけ解説の必要もないかなと思っていたのですが、辞書の解説を何度か繰り返し読んでいて、ふと二通りの解釈ができることに気がつきました。この諺の本来の意味は、旅先の不慣れの地で、当地の文化風習をよく知らず、やむを得なくかいてしまった恥を慰める為の言葉だったのではないでしょうか。武士などに下手に切腹されたりしたら大変ですし・・・。それが近年では、旅の恥はかき捨てだとばかりに大胆に自ら恥と分かっている行動に出る人が多くなりました。だから極端な解釈でいうと「旅先ではどこの誰だかわからないから、少々無様なことをしても恥にならないので進んで恥をかきましょう」「せっかく来たのだから、少々羽目を外さなければ損だ」といった解釈にいつしかすり替わってしまったのではないでしょうか?とりわけ日本人、いやアジア人は集団になると気が大きくなります。旅先だからといって「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とばかりにマナーの悪いことをするのとは論外です。旅は日常生活とは違う脱日常の世界ですが、日常と同じようにマナーの悪い行動に対して恥ずかしいなと思うような日本式の奥ゆかしさを忘れないで欲しいところです。そしてその奥ゆかしさこそがこの言葉の意図することだと・・・思いたいです。まあ誰も知った人が見ていないからというのも日本らしいと言えばそうですが・・・。

「旅路の命は路用の金」 <日本の諺>

「旅は憂いもの、つらいもの」 <日本の諺>

旅行書やガイドブックなどを読んでいると、「命の次に大事なのはパスポートだ!」、「絶対にパスポートをなくすな!」といった事が書かれています。そうなのかと、初めての海外個人旅行を10日間行ってみても、やはりそうなんだと思っていました。しかし長期で個人旅行に出てみると、写真好きな私のことなので、命の次に大事なのは撮影済みのフィルムでした。パスポートはお金を出せば再発行できるけど、撮影済みのフィルムはなくしたら二度と戻ってきません。そう考え、常にフィルムを第一に考えていたので、パスポートはカメラバックの隅っこに入れっぱなしといった粗末な扱いでした。何度か旅を経験した後、初めてパスポートをなくしてしまうという体験をしてしまいました。その時に思ったのは「命の次に大事なのはやはりお金だ。」ということでした。パスポートをなくすと同時にお金もかなりなくしてしまったので、なんとも心細い状態でした。お金さえあれば、パスポートも再発行できるし、宿や食事の心配も要りません。大使館がある町ならともかく、大使館がなければお金を貸してくれる人もいません。パスポートがあったとしても、お金を貸してくれる人がいるでしょうか?どうやって大使館のある町へ行けばいいのでしょう。時間のゆとりはないけど、お金は添乗員やら他の旅行者に借りる事の出来るツアー客にとっては、命の次に大事なものは再発行に時間のかかるパスポートかもしれませんが、孤軍奮闘中の旅人にとっては必ずしもそうではないようです。

それは昔とて同じ事。いやそれ以上だったようです。もちろんこの時代にパスポートというものがあるわけないのですが、それは諺の「旅路の命は路用の金」とかなり現実的な表現に表れていると思います。それに「旅は憂いもの、つらいもの」と自分の足で歩きながら旅をし、山賊やら追いはぎに怯えていた昔の旅路では、頼れるものは自分の力量とお金だけだったようです。もしお金がなくなってしまうと、旅は続けられなくなり、旅の資金を手に入れるために働くなどしなければなりませんでした。お金がなくなって行き倒れになったり、女性の場合は遊女にならざるを得ない場合もあったでしょう。旅は命がけの娯楽・・・というのは言い過ぎですが、今の時代のようなレジャー感覚で行うものではなかったようです。そう考えると、水戸黄門様の印籠は今でいうドラえもんの四次元ポケットみたいなものだったのかもしれません。

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<旅や旅人にまつわるエッセイ §11、旅の名言、格言、諺集2 1999年10月初稿 - 2015年9月改訂>