風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ 旅や旅人にまつわるエッセイ ~

§10、旅の名言、格言、諺集1

ここでは先人などが残した旅にまつわる名言、格言、諺などを集め、私なりに解説を付けてみました。あくまでも自分の経験を基にした個人的な解釈なので、先人達が言いたかった事と全く見当違いな解釈になっているものもあるかもしれません。その場合は笑いながら読んでください。そしてこっそりと正しい解釈を送ってくださると助かります。

「千里の道も一歩から」 <老子>

老子の言葉です。比較的よく聞くので、知っている人が多いと思います。千里もある遠い道のりであっても、まず踏み出す第一歩目から始まるという意味。壮大な旅の計画もまずは一歩目から始まって、次の一歩を踏み出し、更に一歩を・・・それが積み重なって達成できるものです。旅というよりも「千段の階段も一段から」といった感じでどちらかというと、大きな目標や事業などで着実に努力を重ねていけば成功するといった感じで使われています。私的に感じるのは何よりもまずその一歩を踏み出す勇気を持つことが大事です。一歩目を踏み出すと二歩目は簡単です。「千里の道もまず一歩を踏み出す勇気」その先に行き着くところはわかりませんが、一歩目を踏み出す勇気から全てが始まるように感じます。老子も当然そういった意味も含めてこの言葉を言ったのではないでしょうか。

「人が旅をするのは到着するためではなく、旅をするためである」 <ゲーテ>

「幸せとは旅の仕方であって、行き先のことではない」 <ロイ・M・グッドマン>

「希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである」 <スティーヴンソン>

「旅の過程にこそ価値がある」 <スティーブ・ジョブズ>

こういった言葉は私自身とても好きな言葉で、旅の本質をうまく言い得ていると思います。自分に当てはめて考えてみても、私自身旅をするのが面白いから旅をしているのであって、目的地に到着する為に旅をしている訳ではありません。なんていうか、その時その時で目的地は決めて旅に出ますが、極論でいうなら旅ができれば目的地はどこだっていいのです。だから旅というものを冷静に突き詰めていくと、旅とは目的地に着く事よりも目的地を捜す事から始まって自然とそこに着くまでの過程や旅自体を楽しんでいるものなのです。そういった訳なので、途中で目的や目標が変わってしまい、最終的に最初に決めた目的地に到着しなくても、自分なりに満足できる旅ができればそれはそれでいい旅だと思っています。

でも、当てのない旅とか、放浪のような旅をした事のない人の中には、悪天候やトラブルなどによって最初に決めた目的地に着かなかったり、スケジュールが狂ってしまったりすると、旅全体が失敗だったと考える人も多かったりします。確かにツアー旅行ならスケジュール通りに全て進行できれば成功と感じるかもしれません。しかしながらよくよく考えてみてください。本当にその旅が成功だったとにんまり笑っているのは添乗員や主催者だけです。小さなごたごたに巻き込まれた方が旅行者としては後で振り返った時に印象深かったり、思い出深い旅となっているものです。それに目的地に着かなくても旅自体は行っているので、絶望のどん底に落ちたように悲観する事もないかと思います。目的地に着く事だけが旅じゃないという事をちょっと違った角度から例えてみると、もしあなたが人生で弁護士を目指していたけど、結局普通のサラリーマンになってしまったとして、それは失敗の人生でしょうか。結婚をして、子供もいて、なんとなくでも今が幸せならそれはそれでいい人生だと思えるのではないでしょうか。そして弁護士を目指して勉強していた頃の事は、あんな頃もあったな~といった過ぎ去りし良き思い出となっていませんか。このように考えると少しは納得できませんか。こういった感覚が人生と旅がよく似ているという由縁でしょうか。上のゲーテの文章を人生に置き換えると、「人が生きるのは死ぬためではなく、生きるためである」って感じの格好いい文章になったりします。まあその時その時を精一杯楽しもうとする人は旅にしても人生にしても楽しめるものです。

しかしながら、近年では移動が省かれるような旅が増えているように思えます。といっても移動しない旅という意味ではなく、文明の利器の発達により、早く正確に、そして味気なく目的地に着いてしまうという意味です。例えば新幹線や飛行機に乗ってしまえば、何も考えることなくあっという間に遠くの目的地に着いてしまいます。問題は時間通りに到着するかどうかぐらいでしょうか。だから目的地に着くのが当たり前であって、目的地に着いた後に、さあ旅を始めようというのが現代人の旅のスタイルという事になります。これでは完全に移動と旅が分離していて、移動+レジャーと解釈するのが正しいように思えます。そういった旅が当たり前と思っているなら、このゲーテの言葉を理解するのはちょっと難しいかもしれません。なぜなら無事に現地に到着して旅が始まるか、或いは到着できずに旅が始められないかの二択しかないからです。その場合はやはり到着できない→旅が始まらない→旅ができないという事で失敗な旅になるのでしょうか。

結局のところ、色々と予想外のハプニングが起こりうる可能性があるのが旅であり、トラブルが起こりにくいのが日常です。トラブルも旅のうちなんだといったように考え始めるとトラブルを含めて旅そのものが楽しくなる事でしょう。本当の旅とはその時々の状況に応じてその人の自由な意志や判断、或いはトラブルなどの外的要因に応じて目的地が変わりうるものなのですから。でもまあスケジュール通りといった考え方をしてしまうのは几帳面な日本人の国民性かもしれませんね。但し、ツアー旅行などはあくまでも団体行動というのが前提なので、旅とは自由なものだと勝手にスケジュールを逸脱するのは自由の履き違いというものですので、お間違いなく。

「人生は旅である、我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう」  <若山牧水>

「この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが帰りはない」  <吉川栄治>

「人生は己を探す旅である」  <藤本義一>

「正月は、冥土の旅の一里塚。 めでたくもあり、めでたくもなし。」 <一休宗純>

「旅は人生の縮図である」、「人生は旅である」といった感じで、直接的、間接的に旅と人生を結びつけた言葉は多く存在します。また「人生を旅する」といったように「生きる」というのを「旅する」といった表現を使っている文章も多くあります。その全てを紹介するのは大変というか、調べるのがとんでもなく大変そうなので、幾つか有名なものをピックアップしてみました。こういった言葉は文章の中に出てくる一文を抜き出したものが多いので、前後の文脈と照らし合わせて考えないと誤解してしまいそうですが、とりあえずこういった文章があるといった感じで紹介しています。その中でも一休和尚の言葉が一番シンプルで、かつ本能的に心に訴える物があるのではないでしょうか。わかりやすく考えると、人生も旅も双六みたいなもの。大きな目を出して突っ走っても途中で足踏みすることもあれば、前に進みたいのになかなか大きな目が出なくてイライラしてみたり、止まったマスに幸運な出来事があったりとまあそんな感じでしょうか。

なぜ人生と旅とを絡めるような表現が多いのか。それは旅の本質と、人生の本質が似ているからです。「人生山あり、谷あり」という表現にあるように、人生は次に何が起こって、方向性が変わるのか分かりません。ふとしたきっかけや縁によって今までの貧乏生活から一気にお金持ちの生活へ様変わりといった事もありますし、その逆もあります。だからこそ人生は楽しいとも言えます。旅に関しても、本当の旅というものは不確定要素の連続です。例えば日本橋から東海道をひたすら西進して京都の五条大橋を目指す旅人がいたとします。しかし名古屋で伊勢神宮に行く方が面白そうだと目的地が伊勢になってしまったとします。これを人生でいうなら法律家を目指していたのが、途中で建築に興味を持ち、建築家になってしまったのと同じ事です。途中でスリにあって、一回東京に戻って京都に辿り着くというのは、挫折の期間を経たといった感じでしょうか。人によっては中山道から北陸を回って京都に着く人もいるかも知れませんし、何故か沖縄に着いてしまう人もいるかもしれません。そういった多様性と不確定さが人生とかぶり、人生を旅になぞられる表現が多いのだと思います。

一方、どちらかというと目標に到着することに重石が置かれるのが登山です。もちろん登山をする人は登山が好きであるから登山をしているわけであって・・・というかもしれませんが、山歩きならともかく、やはり登山という以上目標は山頂となり、それ以外の目的が存在しにくいのも事実です。旅と登山は似たようなイメージを持つ人が多いのですが、これが旅と登山の大きな違いだと思います。小学校の全校集会などで校長先生が、「君達の人生を登山に例えるとまだ二合目です。これから君達の人生にはまだまだきつい上り坂が待っています。・・・」などと言っていましたが、8~9合目まで登ってしまった年寄りならいざ知らず、若い人はわざわざ死ぬ為に真っ直ぐ頂上を目指して登りたくないと思うのではないでしょうか。私なら2合目あたりでずっと暮らしたいものです。何か短い目標、例えば学生生活や、部活などの目指すべき目標がある場合の格言なら登山はぴったりだと思いますが、人生に例えるとちょっと不自然な感じがしてしょうがありません。小学校の時から妙に引っかかっているのですが、いかがなものでしょう・・・。

「旅人よ、道はない。 歩くことで道は出来る。 」  <アントニオ・マチャド>

「青春を旅する若者よ。君が歩けばそこに必ず道ができる。」 <永井龍雲(道標ない旅の歌詞)>

「何かをやって時間を損するということは絶対にない。 貧乏旅をすれば、大学を二つ出たようなものだ。 」 <永倉万治>

「旅」を「人生」や「生きる」といった事に絡める言葉は多いのですが、その「人生」の中でも特に「冒険、挑戦」の部分で強調して、それを人生の一場面として使っている事もあります。とりわけ若者が困難に挑戦する場面であったり、その時に背中を押すような時に使われる事が多いでしょうか。もちろんこういった言葉は人生という擬似的な旅だけではなく、そのまま現実の旅にも当てはまります。貧乏旅行のような長期の放浪旅行は体力勝負な部分が大きく、また日々が緊張の連続なので強い精神力も必要です。また好奇心や探求心、冒険心が行動力の源になっている場合が多いので、若い時にしかやりにくいものです。でも若いうちに行うというのはそれなりにリスクを伴い、若いうちの貴重な時間を犠牲にしなければなりません。そのことによって一般的なエレベーター式の人生出世レースから外れてしまうことなどが懸念されるでしょうか。とはいうもののそれは目の前の人生を考えた場合のこと。旅で得た経験や見聞は普通に生きていたら得られない貴重な物です。それを人生に生かす事ができるのなら遅れた分はあっという間に追いつき追い越すこともできるでしょう。長い目で見た場合にはまた別の見方ができるものです。

旅に限らず、他の人と違う生き方、あるいは一般的ではない生き方を選ぶのは勇気のいることです。特に前例の少ないことをする場合には、こうすればいいといった確実な方法や虎の巻がなく、このまま進んで大丈夫だろうか、失敗したらどうしようなどといった不安が大きいものです。その不安に尻込みしているだけでは何もできません。失敗したら引き返したらいいのでは。旅で迷子になってもとりあえず行動を起こさなければ迷子のままなのです。とりあえず進んでみれば何かしらの道が開けるものなのです。失敗も成功のうち。失敗は成功の素。などといった言葉がいい例で、特に適応力がある若いうちは後戻りも方向転換もそんなに難しくないはずです。とはいうものの、人生経験の少ない若者にはなかなか目の前しか見えないものです。中には若さと度胸で切り開く人もいますが、やはり多くの人が失敗や後戻りに尻込んでしまうのが実際のところでしょうか。そんな時に勇気を与えてくれるのが先人の言葉であったり、身近にいる人生経験を積んだ人のアドバイスなのです。それがこの言葉の真理となるでしょうか。

私自身、長旅を決意したときに一番共感したのが永井龍雲さんの「道標ない旅」の歌詞にあった「青春を旅する若者よ。君が歩けばそこに必ず道ができる。」というフレーズでした。長期の一人旅を行った人というのは世間を探すと多くいるようでしたが、周りでは全くいなく、旅立ちの際には大いに悩みました。その時にふと耳にしたこの言葉に目から鱗が落ちる思いがしました。今は草木をかきわけて道なき道を進んでいても後から振り返ってみればそこに必ず道ができているのではないか。歩けば何かした道ができるはず。それが例え回り道や遠回りでもいいではないか。何よりやらないで後悔するより、行動を起こして後悔した方がいいのでは。そういった感じで旅立ちを決意しました。そして帰国した現在でもやはりその思いは同じです。結局のところ、ある程度人生経験を積んで自分の人生を振り返らないと人生の最短ルートなどといった物はわからないものです。遠回りしたと思っていたことがそうでもないというのはよくあることなのです。というより、今ある自分がそれ以上の存在でもそれ以下の存在でもなく、あるがままなのです。これが人生の真理であると考えるのなら、実は遠回りなんてものは存在しなく、まっすぐな一本道を歩いてきただけのことなのです。人生は積み重ね。歩いた足跡の数だけ積み重ねられていくもの。だからその時は草木をかき分けて道なき道を進んでいたつもりでも、ある程度進んで振り返ったときに自分の足跡が続く小さな道ができているのです。そして場合には自分の作った小さな道を後ろから歩んでくる人もいたりするかもしれません。更に多くの人が歩くなるようになると立派な道となるかもしれません。自分が最初に手探りで始めた物事でもいずれは一般的なことになる場合もあります。確かにあまり歩かない道を進むのには度胸がいりますが、だからこそ得られる経験や自信はとても貴重なものなのです。考えてみてください。多くの人が歩むような大きな通りを歩いた場合、振り返ってみても自分の足跡は残っていないのではないでしょうか。たまたま雨上がりで足跡が残っていたとしても、すぐに他の人の足跡で消されてしまうのでは。どちらがいいかは人ぞれぞれだし、その場の状況にもよります。ですが、人がやっていないからとか、一般的ではないからといっただけの理由でやらないのは人生の楽しみの一部を自分で消しているようなものなのです。

こういった人生と旅を絡めた言葉が妙にマッチしてしまうのは、やはり旅自体が人生の縮図であるからです。そして人生の縮図である分、旅での日々はめまぐるしくいろんな事が起きます。そのめまぐるしい生き方は若者のそれにふさわしいから、若者を例えた言葉が多いのでしょう。それに対して老人の生き方は日々単調な流れであることが多く、旅に例えるのにはふさわしくないですね。強いて言えばリゾートといった感じでしょうか。でも年をとっても50の手習いといった感じで色々と挑戦している方にお話を伺うと、やはり同じような言葉を使いたくなってしまいます。逆に安全志向で何もしない若者と話をすると、若いのだからもっといろんな事をしたらいいのに・・・なんて思うこともあります。そんなことを考えると私的には単純に若者にかける言葉というよりも精神の若い人に使うべき言葉かなと思っています。

「あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」 <ヘミングウェイ>

有名なアメリカのノーベル賞作家ヘミングウェイの言葉です。 古き良き時代の人ですが、意外と現代の旅の本質をうまく突いていると思います。近年、世間で「自分探しの旅」という言葉をよく耳にする時期がありました。有名なサッカー選手が引退して旅に出たり、イラクで自分探しの旅をしていた旅行者が殺された時期です。正直言って私は「自分探しの旅」という言葉は好きではありません。なぜ自分を探すために旅に出なければならないのでしょうか。現実の中では自分がわからないのでしょうか。確かに旅というのは日々新しい出来事の連続で、めまぐるしくその状況状況に対処しなければなりません。そういった中で自己鍛錬ができたり、自分の適正を発見したり、新たな価値観を発見する機会になるかもしれません。しかしながらそういった事はあくまでも現実の生活からの延長上の土台に立っていないと見つけにくいものです。なぜなら旅とは現実の生活と対をなす存在だからです。そういった現実と違う世界で自分の何を発見できるのでしょう。ただ旅に出たからといってそういったものが安易に見つかるものではありません。少なくとも自分のやりたいこと、目標を掲げ、それを旅で実践すればこそ現実との比較で新たな発見が生み出されるものではないでしょうか。そういった事を実践している人は自分探しの旅なんて言葉は使いませんし、自分を探すために無闇にさまよっていません。ですから余計に自分探しをしている人と話すとその行動の薄さにふわふわと漂っているだけといった感じがしてしまい、その言葉が好きになれないのです。

とまあ「自分探しの旅」を例に挙げたのですが、「失恋旅行」「感傷旅行」などと現実に問題を抱え、それから逃げたいが為に旅に出るケースが多くあります。これは旅だけではなく、留学にも同じ事がいえます。日本の大学には入るのが難しいからとりあえずテストを受けなくていい海外の大学へ行ってみよう。海外の大学ならランクもわからないし、体裁も繕えるといった感じでしょうか。あるいはワーキングホリデーなどでもそういう人が多いと聞きます。結局のところ、旅や留学を隠れ蓑にして現実逃避するのは簡単なことです。まさに旅や留学は現実から逃げるには最適な場所だと思います。しかし、人生で難しい事は答えを得る事ではなく、現在直面している問題を正しく認識し、解決を試みることなのです。ヘミングウェイの言葉にあるように、旅に出たとしても自分自身の問題から逃れることはできません。なぜなら問題を解決するのは旅ではなく、自分自身だからです。確かに旅に出ることで時が流れ、その事で時が心の傷を癒してくれるかもしれません。また楽しい思い出が記憶を上書きすることでつらい事が薄らぐかもしれません。でも最終的にその物事や問題に対して向き合うのは自分なのです。そのためには現在の自分にとって何が問題となっているのかを正しく直視し、それを解決するために行動しなければなりません。問題から逃げていると、後からより大きな問題となって自分に降りかかってくるのが世の常です。それに現実から逃げてばかりいると、問題を直視する事が出来なくなる人間となってしまい、常に安易な方向へ選択肢を求める生き方になってしまうものです。

「かわいい子には旅をさせろ」 <日本の諺>

「ロバが旅に出たところで、馬になって帰って来るわけではない」 <西洋の諺>

「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」 <イギリスの諺>

私自身、小学生の時から一人で旅というか、祖母の家まで4~5時間かけて移動する事がよくあったので、両親が周りの人に「可愛い子には旅をさせろって言うもんね」などと言われているのを耳にしてきました。「可愛い子には危ない事をさせたくないんだよ」と言われても、幼い子供に親心が分かるはずもありません。なぜ可愛い子には旅をさせるのだろうか?可愛くない子は旅に出てはいけないのだろうか?もちろん小学生の頃の私には到底理解できる言葉ではなかったのですが、とりあえず私は可愛い子なんだと褒めてくれているのかなと思っていたので、こう言われて悪い気はしませんでした。そして時が過ぎ、旅というものの本質が分かるようになった大学生になってやっとこの意味が分かり始めました。

親と一緒でなく子供が一人で旅に出るとなると、今まで親が行っていたことを自分でやらなければなりません。仮に一番簡単な一人旅として駅まで親に見送ってもらい、到着駅で親戚などに出迎えてもらうといった簡単な旅にしても、途中で何かあったときは自分で対処しなければならないし、降りる駅を自分で判断しなければなりません。要は自分で判断して行動するという事を一人旅では行わなければなりません。そのことによって自立的精神が養われ、その経験は子供の成長にとって様々ないい影響があるかもしれません。その反面、子供の判断力では詐欺、誘拐、事故などといった危険も伴うかと思います。だからといって危険な事に目をそらして過保護に育てていては、なかなか子供が自立できません。しっかりとした大人になってもらうためにも思い切って旅に出そうではないか。心配だけどこれも子供の為だ。このような複雑な親心と旅の本質が絡まって、この言葉が生まれたように思えます。そう考えると、とても日本的でいい言葉ではないでしょうか。これは旅だけではなく日常の生活においても同じ事が言えます。子供が成人した時や学校を卒業したときに本当なら手元に置いておきたいけど、子供のために良くないからとさっさ家から追い出して独立させる親もいますが、これも似たような気持ちからの行動と言えるのではないでしょうか。

でも西欧では「子供を旅に出しても立派になって帰ってくるとは限らないよ」といった意味の諺が存在します。「ロバが旅に出たところで、馬になって帰って来るわけではない」という諺がそうです。ちょっと皮肉好きな西欧人の考えそうな事だなと感じる一方、これもまた旅の本質をうまく突いている言葉です。旅、もしくは留学もそうですが短い期間に得る事が多い反面、悪い癖などがつきやすいという諸刃の剣でもあるのです。自分なりに目標や、テーマを決めて旅や留学をしないと、麻薬や遊び癖がついて帰宅することになりかねません。ロバ以下になってしまう事もあるかと思います。「旅もいいけど、ただ闇雲に旅をするだけでは駄目なんだよ。本当に何がしたいのか考えてごらん。」といったような戒めの言葉として使うのが最適でしょうか。そして一番言い得ているというか、この二つの言葉をまとめた感じなのがイギリスの諺で、「旅は利口な者をいっそう利口にし、愚か者をいっそう愚かにする」とあります。同じような長期の旅でも向上心やしっかりした考え方がある人間は、旅をうまく利用してより自分を磨くことができるかもしれませんが、 考えもなくただ闇雲にだらだらと旅をしているとより駄目な人間になってしまうよといったところでしょうか。

「旅をするのは帰る家があるからだ。 さすらいの旅ほど淋しいものはない。」  <長渕剛(ガンジスの歌詞)>

「家に帰るまでが遠足」 <一般標語>

この言葉はこれは長渕剛さんの歌「ガンジス」の歌詞の一部です。この曲は題名の通りインドの母なる大河ガンジスを歌ったもので、ガンジス川の有名な聖地バナラシ(ベナレス)の川沿いで作曲したとか。このバナラシ(色んな呼び名がある町)はバックパッカーの憧れの地でもあり、日本からも多くのバックパッカーが訪れています。そして長渕剛さんが泊まったホテルだとか、見学したガート(沐浴場)だとか、結構話題になっていたりします。ちなみに全く関係ない事ですが、この「ガンジス」の歌は10分ぐらいの長い曲です。昔よく先輩が仕事中に有線にリクエストしていたのですが、あまりにも頻繁にリクエストしていたので、終いにはこの曲は長すぎるので受け付けられませんと断られていました・・・。って話が脱線してしまいましたが、このフレーズに色々と思う旅人も多いのではないでしょうか。なかなか旅の本質をうまく付いていると思います。

旅の本質は現実逃避なので、家(日常生活範囲)から一時的に離れ、日常生活に束縛されない行為が旅といえます。だから旅は日常とかけ離れた浮世絵物語のように楽しくもあり、旅に出るとまだ家に帰りたくない、まだ旅を続けていたいと思う程楽しく時間が過ぎるものです。そしていざ家に帰る時間が迫ってくると、家に帰る事で楽しい思い出が花火のように消えてしまうような感じがして寂しく感じるものです。帰路に着く前のとても切なく、夢よ覚めないでというような感覚は身に覚えがあるのではないでしょうか。しかしながら長旅をした事のある人、結構きつい旅をした事のある人、不運な事にトラブルに遭ってしまった人などは、またちょっと違う感想を持っているかと思います。ヘロヘロになって帰宅した時の安堵感というか、やっと終わったんだといった充実感というか、ある意味やっと家に帰れる・・・といった感じでしょうか。そして「もし家がなかったら・・・」と考えると、帰る場所があるというのはなんて幸せなんだろう、帰る場所があるからこそ頑張れたんだ。もし帰る場所がなかったらどんなに寂しい思いをする事だろうかと考えてしまいます。典型的なのは長旅、ホームステイ、単身赴任などでのホームシックでしょうか。もちろんこれは旅に限らず日常でも、仕事がきつかった日に家路に戻る時の安堵感なども似たような感じかもしれません。

「旅とは?」のエッセイで書いたように、そもそも旅とは一時的な現実逃避を含んだ移動行為であって、帰る家があって成り立つものなのです。もし帰る家がなければ、ひたすらさすらうだけ。遊牧民などがさすらいの民と言われるのもそういった事があるからです。もちろんそれが彼らの生活スタイルなので、厳密に言うならそれは彼らの日常生活や義務的な行為であって、現実逃避が本質の旅とは異質のものです。もしそういった日常的な行為でもなく、たださすらうだけの旅、行く当てのない旅の辿り着く先はどこになるのでしょう。青木ヶ原の樹海でしょうか。帰る場所のないさすらい旅というのは、本当に寂しいものなのです。ふうてんの寅さんが映画として成り立っているのは柴又に家があるからです。こういったことは楽しい浮世絵のような旅の裏側の部分かもしれません。

また、「家に帰るまでが遠足」とよく言います。まあ普通に考えれば・・・、というか、一般的な使われ方は「家に帰るまでが遠足なので、最後家にたどり着くまで気を引き締めて事故のないように・・・」といった感じです。遠足も旅の一部と考えていいので、これを旅に置き換えて考えると、遠足(旅)は家を出て家に帰るまでなんだよとさりげなく、そして簡潔に旅の本質を述べている言葉でもあったりします。旅とは家に帰らないと、或いは旅先で新天地を見つけるまで終わらないのです。そして家に帰ると同時に脱日常の楽しい状態が終わり、再び日常が始まるのです。ある意味この言葉はもの凄く重みがあるなと思ったりもしますが・・・、解釈の仕方次第でしょうか。

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<旅や旅人にまつわるエッセイ §10、旅の名言、格言、諺集1 1999年10月初稿 - 2015年9月改訂>