風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ その他のエッセイ §3 ~

とある旅人として感じた介護2

~~~ 深刻になってくるトイレの問題 ~~~

マラソンと言うか、長距離を走っているときに、「苦しい!」「もう駄目だ・・・」と思いながらも耐えて走っていると、ふと楽になることがあります。「あれ、体が楽になった。」「まだまだいけるじゃん。俺!」ってなもんで走り続けると、また苦しくなり、そこでダウンするか、また楽になって走り続けられるかどうかはその人の精神力や体力次第になるでしょうか。

介護でもふとしたきっかけや心境の変化で楽になったりすることもあります。それは慣れだったり、心の持ちようといった心境の変化だったり、覚悟の度合いの変化だったり、内的要因、外的要因様々あると思います。それに人間やらなけりゃと覚悟を決めた時のパワーは凄いもので、何かきっかけ・・・、これは大抵悪い事例で懲りたり、目が覚めたりという場合が多いのですが、そういった機会を転機にやらなきゃと変われたりする事があります。

私自身も母親がトイレができなくなったら施設に入所させるぞと最初は決めていたものの、気が付けば今では毎朝紙パンツ(オムツ)の交換をしていたりします。まあこれは先に書いたようにちょっとしたきっかけがあったからです。それまではできませんでした。できないから妹が近所から引っ越していった後、わざわざ東京からおばさんのいる広島へ引っ越したほどです。それぐらい嫌でした。もちろん今でも嫌には変わりありません。

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介護をしていく上での問題は・・・、徘徊に苦しむ人、幻覚に苦しむ人、暴言や暴力に苦しむ人、色々いるかと思います。これは患者の性格次第であり、また介護者の性格、介護状況にも拠るので人それぞれになります。それに病気の進行段階によって現れたり、消えたりする症状もあります。私の場合でも介護の初期頃には物を取ったとかの暴言や幻覚には苦しみましたが、今はそれがなくなったので言葉の暴力的な苦しみからは解放されたので少し楽になりました。

ただ病気が進んでいくと誰しも苦しむ問題の一つが排泄です。これはどうにもなりません。母親も最初はトイレ内での失敗が多くなり、トイレの掃除とトイレの悪臭、衣服に付着した尿臭に悩まされました。これはたまらない。修羅だ。忍耐だ。精神的に一杯一杯になりながらトイレの掃除をしていたものです。

でもそのうちトイレ外の失敗が出てくるようになると、あの時の方が楽だったな、あれはまだ序の口、下積み時代だったんだなと感じてくるものです。床やら布団やらの掃除、洗濯に時間が取られますし、笑顔で笑いながらするような作業ではありません。季節によってはこれでもかというぐらい臭います。ロールプレイングゲームなどのゲームを進めていくと、どんどんと出会う敵が強くなっていくのと同じで、介護でも月日とともにどんどんとステージがあがっていき、介護者に要求されるレベルも上がっていくのです。

紙パンツにしてくれればな。失敗したときに楽なのにな。下着の洗濯もしなくて済むし。失敗が多くなるとそう思うのですが、母親の場合は比較的若い年齢での認知症なので、自分の年齢で何で紙パンツをしなければならないのといった意識がはっきりとあり、なかなか紙パンツにする機会がありませんでした。多分この切り替えにも頭を悩ます人が多いかと思います。認知症の場合は理解力がないので、自分の行為で周りが困っているとか、迷惑が掛かっているという感覚がほとんどないのです。

とはいえ昔の記憶や生活概念といったことはちゃんとわかるので、紙パンツみたいなものは年寄りや赤ちゃんがするものだと聞く耳を持ってくれません。逆に掃除が大変だからとかきちんと説明しても、私は誰にも迷惑をかけていないと余計に拒むだけなのです。我が家の場合は下痢をして家中が大惨事となり、下痢をしても大丈夫なようにしばらく紙パンツにしなさいとおばさんが風呂上りに無理やり履かせ、その後はそれが当たり前となってしまいました。

紙パンツを履き始めて最初の頃は時々抵抗しましたが、また下痢をしたら大変なんだ。そういうもんなんだ。といった感じで無理やり納得させ、すぐにそれは慣れました。大変なのは最初のきっかけだけでした。これで下着などの洗濯をしなくてすむぞ。布団などを洗う手間がなくなった。これは楽になったぞ。と喜んだのでしたが、平和な時間があったのは一ヶ月ほどでした。

一ヶ月もすると紙パンツの中でしてしまう場合が増えていったのです。それもわざわざトイレに行って紙パンツのまま便座に座ってしてしまったりするのです。トイレの流す音が聞こえたから安心。ってなことはないから困ってしまいます。

この頃はデイサービスに週四日通わせていたのですが、デイサービスの人に聞くと、「来所されている時は自分で行かれて、ちゃんとされるときもありますよ。でも、いつもいつもそうでもなく、やっぱり戸惑われていることもあります。」とのことでした。

行動に戸惑いがあるので一緒に付き添ってやればできるみたいですが、なかなか自宅では難しい。毎日、トイレの度にそれをやるのは嫌です・・・。狭いトイレで母親と向き合ってパンツを下ろしてとか、便座に腰掛けてとか、やっていたら私の気がおかしくなるかもしれない。

しばらくは薄型のものをつけて、普通に生活をしていたのですが、夜中に紙パンツの中ですることが多くなってきました。普通の人でも朝晩の寝ぼけた状態では何か物を落としたりと昼間だったらしないような失敗することがあります。認知症の場合はそれがもっとひどく、朝晩は行動が遅く、理解力がないといった状態なので介護者にとって悪夢の時間となります。朝晩だけトイレの失敗をするのはしょうがないと対処のしようがあるのですが、時々昼間でも寝ぼけた状態でオムツの中でするようになってしまいました。

このままでは朝と夕方にオムツを換えないといけない場合が出てくるはず。何か対処しないと・・・。デイサービスや訪問介護などの介護サービスをフルに活用し、利用しない日はおばさんに頼むことにしました。でも徐々にどうにもならない場合が増えてきました。特に朝。今までは夜か朝には自分でトイレに行っていたのが、夜中に一回も行かなくなってきました。そうなると朝紙パンツがパンパンなのです。いくら回数が多いやつをつけても限度というものがあります。

ある朝のこと。大丈夫かな・・・。なんか臭うぞ。でも交換するは嫌だし・・・。そんな葛藤をしつつ、自分で換えるのは嫌なので、大丈夫だろうってことで、ちょっと罪悪感を感じつつデイサービスへ送り出しました。お風呂に入ったときに交換してくれるはず。まあこれで一安心。毎日くたびれます。送り出した後が一番ほっとします。そして用事を済ませてお茶を飲むとなんとも幸せを感じます。ささやかですが、そんな生活なのです。

しかしその日の帰宅時、ちょっと問題が発生しました。いつもお世話になっている可愛い介護士の人がとても申し訳なさそうに謝ってきたのです。やっぱりズボンが濡れていたようで、そのズボンを洗濯してくれたのですが、漂白剤に付けたらズボンが色あせてしまったとのことです。弁償します・・・。と言われてしまったら言葉もありません。

古いズボンなのでしょうがないし、そもそもそれはどうでもいいのです。いや、わざわざ洗ってくれたのに嫌な思いをさせてしまって・・・。謝るべきなのは、嫌だからと押し付けた私の方なのに・・・、こりゃいかん。やらなきゃって覚悟がついた時でした。まあ単純な動機であり、ちょっと情けないきっかけでもありました。

これはなんというか、旅でいう左手デビューみたいなものでしょうか。インドやアラブのトイレでは大きいほうをした後に右手に水桶を持って、その水を使って左手でお尻を洗います。手動ウォッシュレットといったものなのですが、普通の日本人には結構高いハードルとなっていて、すんなりとできる人は少ないです。なんていうか、ちょっと勇気がいる行為です。

宿などで日本人の旅人と出会うと、やっぱりこの会話となり「もう左手デビューした?」なんて会話が盛り上がります。「いや当然だよ。」なんて言うものなら羨望のまなざしで・・・。ってまあ大袈裟ですが、私も最初は抵抗があって、トイレットペーパーを使ってゴミ箱に捨ててといったことをしていましたが、そのうち慣れるとこの方が楽じゃない、紙を使わなくてもいいし。といったように、それが現地の日々では当たり前になってしまったということがありました。

これは旅での話なので、やらなければやらないで済む問題です。介護の場合は・・・、やっぱりやらなければやらないで済む問題かもしれませんが、自宅で介護している場合にはいずれ必ずトイレの問題に直面します。特に息子が一人で母親を介護している場合には深刻な問題です。いきなりやるには難しい問題です。それに母親の方も症状の度合いにも拠りますが、嫌がります。時間をかけて慣れないとお互いに精神的なダメージが溜まり、強烈なストレスとなる場合もあります。

トイレの問題は最初は小さいほうの失敗から始まり、徐々に頻度が上がると紙パンツにせざるをえなくなり、紙パンツで過ごすのが当たり前になると、紙パンツでやるのが普通の事となり、トイレでの仕方がわからなくなっていきます。そのうちトイレに行くことを忘れるようになってしまうともう大変です。特に大きいほうが上手くいかなくなると、家中が悪臭で満たされます。狭い家だと食欲もなくなります。

私自身、日々経験として身についていった免疫のおかげと言うか、紙パンツを換えるところまでたどり着いてしまったのか。いやきてしまったかといった感じです。人間の耐性というのは恐ろしいと感じる一方、何か自分の中で壊してはいけないものを壊してしまっているのではといった恐怖も感じます。オムツを替えることを笑顔でストレスなしでやっているわけではないし、二日酔いなどで体調が優れない時は吐きそうになるのですから。

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~~~ 悩む介護の区切り ~~~

一体いつまで自宅で親を診続けるんだ。これが全く厄介なところです。ここまでと決めていても実際にそこまでたどり着いてしまうと、たどり着くまでに免疫や体力がついてしまうのか、まだ余力があったりして、まだ自力でやれるのかなと思えてしまいます。でもこの繰り返しではキリがありません。

旅でいうなら目的地に着いたらもっと先の目的地を設定するようなもの。もっと先には未知なる世界が待っているのではないか。その町にはどんな人が暮らしていて、どんな出会いがあるだろう。疲れているけど、もうちょっと頑張ってみようかな。歩いたら歩いただけの経験ができるというものだ。

旅だとワクワク感があるものの、介護の場合にはそれがありません。進めば進むほど絶望に向かっているような気がします。なんていうか洞窟の探検をしている気分です。このまま進めば迷子になりそう。でももしかしたら財宝でも掘り当てるかも。徳川の埋蔵金とか・・・、海賊の財宝とか・・・。限りなく希望の薄い期待であり、進めば進むほど出口から遠ざかっているような気分でもあります。本当に先の見えないトンネルです。

また旅の場合だと体調を壊したり、不幸にもトラブルに遭遇してしまい旅が終わってしまうといったこともあるけど、根本的にお金がなくなったらそれ以上は旅ができないといった絶対的な制限があります。働きながら小銭を加稼いでいた人もいたけど、そういう細かいことは抜きにして、自分の状況、判断で旅を終わらせて日常に戻ることができます。

介護の場合は、もちろん介護者である私自身がもう駄目だとか、十分やったから施設に入れようと決めればそうなります。もちろん母親が病気になったり、死んでしまったらそれでも終わりになります。単純な話のようですが、旅と違って対人問題なので区切りが意外と難しいのです。更には感情というのが深く入り込んでしまうから厄介なのです。単純に言うなら一人旅ではなく、二人旅をしているようなものなのです。

ただいつまでも現状で上手くいくはずはなく、ちょうど借家の契約が切れるのもあってこの機会に入所させようか、あるいは別の場所に生活を移して頑張るかと悩む日々が続きました。もうちょっとできるのだろうか。一体いつまで見てあげられるのだろうか。それとも最後まで見取る覚悟と根性があるのか。いや、中途半端なことをするとか、中途半端に投げ出すようなことがあるのなら、今がその決断の時期なのでは。思い切ったほうが後悔も少ないと言うものだ。自問する日々が続いています。

人生山あり谷あり、生きていると様々なことがあります。世界を旅しているときは毎日が新しい経験の連続で、一日一日思うことが多かったけど、介護の日々も色々と考えることが多いものです。いや単調に日々が過ぎているようで、単調でないのです。トイレの問題だけでもどんどんとステージがあがっているように、日々自分も進化していかないと精神的についていけないのです。

以前体調不良で倒れたのもあって見かねた親戚は早く施設に入れなさいと言ってきます。そういった理解と幾ばくかの経済力があるのは私の介護の楽な点です。でもそう言われると、余計に頑張ってしまうものであり、また徐々に母親に愛情なども感じてきて、施設に入れるのも忍びないなと介護のストレスを感じる合間に思ったりもします。そう複雑な境地へ陥りつつあります。

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~~~ 介護に向く人とは ~~~

日々色々と考えます。色んなことを考えることが私のストレス発散法であり、それを綴るのが趣味なのです。介護をやり始めた頃は「旅人は絶対に介護に向いていない!」と思っていました。いや、自分がうまくできなかったからそう言い訳していたのかもしれません。介護を続けていれば色々と知識や経験が増えるわけで、最近では旅人って実は介護に向いているのでは。いや向きまくっているぞ。と最初とは真反対のことを思うようになりました。

まあ旅人といっても責任感の強い旅人もいれば、無責任な人もいますし、几帳面な旅人もいれば、大雑把な旅人もいます。色んな性格の人がいるので、旅人が向いている向いていないといった事を論じることがそもそも無意味なことだとは理解しています。

でも旅人的な考え方って介護に必要な心の持ちようになるんじゃないのかなと自分自身と向き合って思うようになりました。まあ、俺って介護向いているじゃん!といった部分を自分なりに一生懸命探して言い聞かせているからそう思うようになったのもあるかと思います。

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まず旅人が云々以前にどういった人が介護に向いているのでしょう。これは仕事としての介護の話なので、在宅介護者とは違いますが、一般的には対人関係が仕事の主な部分になるので、人と接するのが好きな人でないと厳しいですし、その延長として人に対して思いやりがあり、相手を喜ばせるのが好きで明るい性格をしていないと間が持たないというか、淡々とした作業になってしまいます。まあラーメン屋の頑固親父みたいな人には絶対向かない職業です。

またよく言われるように忍耐力が必要です。忍耐といっても様々な忍耐があり、介護の場合の忍耐とは我慢するというよりも、何度も同じことを言う人に対して何度でも笑顔でうなづけたり、支離滅裂な話に合わせたり、言っても行動できない人に辛抱強く言って動作を促したりといったことをできる辛抱強さです。

自分自身に向き合って修行のような忍耐ではなく、相手のペースに合わせることができる忍耐なので、忍耐という言葉で表現するかしないかはその人の考え方次第でしょうか。根本的に短気でカッとなりやすい人や自分のペースを乱されるのが嫌な人にとっての介護はまさに精神修行や忍耐そのものとなるので、向いていないと言えます。

性格的にはどちらかというと大雑把な人が多い感じがします。細かく考えるよりも難しく考えずにやったほうが楽といった考え方をしている人が多いような気がします。かといって命を預かる仕事なので責任感がない訳ではなく、責任感があって大雑把な人というのが私の印象です。それから折れない心、いわゆる我慢強さや場合によっては体を抱えたりといった重労働もあるので体力がないと駄目でしょう。

後は介護だけの問題ではありませんが、積極的に資格を取得したり、何をするかわからない人に臨機応変に対応したりすることも大切です。求人倍率が高いので誰でもなれると言えばなれる仕事ですが、誰でもできる仕事ではないのです。外国人にやらそうという動きがあったのですが、今では・・・というのは、やっぱりちゃんと日本語を理解し、その人が育ってきたバックグラウンドを理解した上でその人を尊重することができないと難しい仕事なのです。

私自身、介護の人と多く知り合う中で、一番感心したのは失敗を失敗と思わせない配慮、簡単に言うなら悲劇を喜劇に変えられる機転です。純粋に感情を表す認知症患者にはとても有効な方法となっていて、これは素直に感心してしまいます。やっぱり介護の人に一番大事なのは、明るさや機転、優しさがあることかなと思いますし、介護士ならではの才能と言うべきかもしれません。何か失敗したとき、悲劇を喜劇に変えられるというのは介護以外の人間関係においても大事ですが、なかなかできないものです。

悲劇と喜劇は紙一重。心の持ちようで変わります。例えば貧乏な人が転んで買ったばかりの卵を落としてしまったら悲劇です。でも大金持ちが転んで買ったばかりの100万円の壺を落として割ってしまった場合は喜劇です。この例えはチャップリンの考え方ですが、親のわけのわからない行動もドリフのコントのように思えば喜劇であり、頭を悩ますストレスに感じるなら積もり積み重なって悲劇となってしまうものです。考え方次第でどちらにでもなります。

それを上手くコントロールすれば介護問題も解決。ってことになるですが、まあなかなかそうもいっていられないのが在宅介護の実態でしょうか。そう努めようとするけど、やっぱり一人だと厳しいのです・・・。一日中ドリフのコントをやっていたら疲れます・・・。何度も同じコントをやっていたら飽きてきます。腹が立ってきます。それにそれが当たり前になってしまうと変な日常習慣というか、感覚が麻痺してきます。外で他人にはできても家で家族にはできない人も多いのです。だから認知症患者を抱えた家庭は絶望感と悲壮感で、陰惨な雰囲気になりがちなのです。

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~~~ 旅人的な考え方と介護 ~~~

さて旅人の話ですが、旅人とは旅をするのが好きであって目的地に到着することが全てではありません。旅人は漠然とした目的地があればいいのです。日本を出発して、ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルのロカ岬を目指して進む旅人は多いです。あるいはシルクロード横断や南北アメリカ大陸を縦断など最初に決めるのは骨組みだけです。

それって明確な目的地があって、目的地に到着するために旅しているんじゃない?と思う人もいるかもしれませんが、ただ単純にたどり着きたいのなら飛行機に乗ってポルトガルへ行けばいいのです。でも旅人は中国、ベトナム、タイ、インド・・・といった感じで進んでいきます。目的地へ到達するまでの旅を楽しみながら目標のロカ岬に向かって旅を続けていくのです。その目的地は重要ではありますが、絶対ではないのです。

旅の途中で資金繰りや日程が足りなくなって辿り着けなくなって旅を断念する人もいますし、別の目的地、例えばアフリカに興味が出てそっちへ行ってしまう人もいるでしょう。インドで悟りの境地を開いて何年も沈没してしまう人もいるかもしれません。

人生でも一緒ですが、生活や経験を積み重ねていくことでまた違ったものが見えていくものです。日々が新しいことの連続で、新たな知識や発見が多い旅ではなおさらです。それに一度きりの長旅、思い切って日本を出てきたんだ!と思えば、今の旅を捨て、思い切って別の道へ進んでいくという決断をすることにあまりためらいはありません。後で考える後悔が少ないからです。

このように旅人にとっては最初の目的地が絶対的な存在ではないので、目的地につかないことが失敗ではありません。目的地に着かなくてもいい旅や経験ができればその旅は成功だと考えます。だからその時々の状況を大切にし、その中で最善の選択を行います。

でも現在では移動手段が発展しすぎてしまい、目的地に着くのが当たり前になってしまいました。また現代人は時間がなく、いかに効率よく旅ができるかを優先的に考えます。そのため旅そのものよりも目的地での楽しみ方に旅の重しが置かれるようになりました。旅の過程、いわゆる移動という概念が効率化で薄くなってしまったので、苦労して訪れるといったことがなくなり、旅とレジャーの区別がつきにくくなってしまったのです。

だから目的地に着かないと旅が失敗と感じる人が多いのが実際です。失敗は成功の元。なかなかそういう考え方が浸透しないのは旅の仕方に象徴されて・・・いるのかわかりませんが、確かに現在では新幹線が停まってしまって目的地での滞在が一日少なくなった場合、どこどこに行けなかったと考えてしまうと、一日損をしたと残念感で一杯になってしまいます。でも生きている以上同じ一日を過ごしているのです。同じ旅をしている一日なのです。他にできることはないだろうか。そう考えるのが旅人的思考です。

そういった現在の旅の状況よりも大事なのが、旅人の考え方が目的地に到着することが全てではないという点です。目的地に着こうとする努力の過程で別の道に進むことになってもそれはそれでいい旅ができる点です。ポルトガルを目指して少し手前のイタリアで資金繰りが上手くいかなくなって帰国することになっても、自分自身の旅の過程を考えれば、ロカ岬までたどり着けなかったけどしょうがないと言った納得の決断になります。

旅は人生の縮図と言われています。人生に当てはめてみても弁護士になろうと勉強している過程で司法書士の方が自分にあっているとそっちを目指したり、建築士を目指して旅と一緒で一日一日の積み重ね。一日一日の経験の積み重ねと、微調整によるものです。そのバランス感覚が旅人は秀でています。日々精一杯生きる選択をすることになれているのです。

介護をしていると先のことを考えます。目的地というか、出口が見えなくて悩みます。介護という名の旅をしていると思えば、漠然と介護の終わりに向かって進めばいいのです。節目節目で目的地を再考すればいいのです。期間が決まっていなかろうが、目的地が定まっていなかろうが苦になりません。そのうちたどり着くのです。それがどういう結末だろうと、旅をしていればゴールがあります。ゴールに向かって後悔しないように日々最善の選択をすればいいだけなのです。そう旅人的な考え方をすれば出口のみえない不安や介護離職にも抵抗が少なくなります。

それに旅人はたくましいのです。色々な経験をしているので逆境にも強いのです。一人で様々な境遇や環境の変化に耐えてきたからこそ自分をよく知っています。一人で煮詰まることが普通の人よりは少ないです。自分の限界も悪いところも。自分を知っているから冷静でいられるし、少々の失敗もくじけません。そして問題が起これば、それを解決するする方向で進みます。

また楽観的である人が多いのも旅人です。晴耕雨読。雨なら雨でもできることをやろう。天気、天命など自分の範疇にない事柄にはなすがままにするのです。楽天的というと何も考えていないといったイメージがありますが、意外とその場その場で適切に状況判断をしているのです。安易に考えているようで、その場その場での状況判断ができるという自信があるからです。それは自分を知って、周りが見えているからです。それにどうでもいいことはあまり考えないようにしているので、しょうもないことでは悩みません。

とまあ、旅人的な考え方をすれば介護もへっちゃら。万事解決!皆さん旅人になりましょう。・・・と、いかないのが実際です。最初に書いたように旅人が介護に向いているというのは私にとっての心のよりしろといった部分になっているというのが実際のところです。日々が辛くないわけがないのです。言葉の力や気持ちの持ちようで精神的に少しは楽になるかもしれないけど、悪臭やら手間の部分は減るわけではありません。精神的な落ち着きや安眠ができるわけではありません。

旅で出会う旅人にも色々います。冒険のような旅をしている人、何かこだわった目的で旅をしている人、普通の旅をしている人、ホームシックに掛かって元気のない人、トラブル続きで旅にうんざりしている人、旅をしてるのだか何をしているのだかわからない人、本当に様々です。でも今私旅をしていますという人はとても輝いているのですぐわかります。目が輝き気力が充実しているからです。

介護の場合はなかなかそういった気力充実といった心境になれないものです。トラブル続きで旅にうんざりしているような旅人と同じような心境なのです。目が輝いている人は少ないです。実際、一人で介護をするのはきついのです。思ったよりもきついのです。いや本当にきついのです。このきつさはやらないとわかりません。

子育てを配偶者の理解がなく一人で行っている人がストレスに悩んでいることは時々ニュースで目にしていましたが、今まではあまりピンときませんでした。でも最近ではわかる気がします。たぶんこういう心境なんだなと。一人で一人の人間を見るというのは一人旅と違ってやっぱりきついです。特にモチベーションを保ち続けるところが難しいのです。

介護では旅に出なくても旅以上の経験をすることができます。自分自身を試すいい機会です。いくらでも自己発見ができます。一時期流行っていた自分探しの旅になんて出なくても十分です。そう、介護をすることには素晴らしい一面もあります。自分を犠牲にして介護をすることで得るものは大きい・・・かもしれません。でも・・・。

「かわいい子には旅をさせよ」といった諺があります。これは子供が可愛いから一緒に旅をしようといった意味ではありません。子供が一人で旅をすることによって経験や知識や自立性を得られるからです。西洋の諺には「ロバが旅に出たところで、馬になって帰って来るわけではない」というのがあります。一人旅には誘惑も多く、危険も伴います。旅は諸刃の剣でもあるのです。だから誰でも彼でも旅に出たからといって立派になって帰ってくるわけではありません。

介護でも同じだと思います。いい経験とかんじる人もいれば、ストレスにしか感じない人もいます。誰しもが同じような考え方をして、同じように歩む人生ではないのですから、上手くいく人もいれば、どん底へ落ちてしまう人もいるのは当然です。

私自身、旅を人には勧める事はありません。同じように在宅介護もやらなくていいのならやらない方がいいのではといった助言をします。経済的に避けられるのなら避けるに越したことはありません。失うものも大きいはずです。なかなか介護では全てを上手くやれるという選択肢は少ないのです。必ずどこかに無理や負担が生じるのです。それは自分が感じていなくても周りの人間だったりする場合もあります。

途中で挫折するような覚悟なら最初から旅に出ない方がいいのです。それと同じで最初っから介護を任せてしまう事の方が失うものが少ないはずです。それが現実的な考え方だと思います。私自身、旅的な感覚があるから介護をやってこれたと思います。それは事実です。でもここに書いてきたことは半分は美談にしています。誇張もしています。介護をやっている以上、何か得るものがないとやっていられません。そういった心境で体験談をつづっているのです。それは旅行記と一緒です。旅人は見てきたことや体験したことをさも自慢げに人に伝えるものなのです。自分のやったとことを大袈裟に話すものなのです。そう私は生粋の旅人なのです。

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<その他のエッセイ §3、とある旅人として感じた介護2 2015年11月初稿 - 2015年11月改訂>