風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ その他のエッセイ §1 ~

とほほな死にかけ話

~~~ 死にかけ話について ~~~

怪しげな題目ですが、これはあくまでも個人的な経験や考えであって、特定の宗教感に基づいているものではありません。ただなんとなく死にかける事が人よりも多いかなと思い、愚痴も兼ねてぶちぶちと書いてみた次第です。だから宗教関係の勧誘のメール、死後の世界を語り合いましょうっていうようなメールは勘弁してください。

さて、本題の死にかけるような話というのは、人に話したくてたまらないという体験から、人には話したくないという体験まで様々あると思います。しかしながら人に話したくないような体験は日常の会話に登場する事もあまりないので、日常的によく聞く死にかけた話というのは、人に話したくてたまらないという話の方になります。話したくてたまらないという事は、ある意味その人にとっての自慢話ということになるわけで、「ねぇ~聞いてよ~」といった具合にちょっと興奮気味にその時の体験を話している場合がほとんどです。

こういった話は、実際のところ聞いていてもあまり面白くなく、口では「わ~すごい。」とか、「よく生きているね」などと相槌を打つものの、内心では「あっそうなの。よかったね。」といった感じではないでしょうか。それでいてその武勇伝は長々と続いていくから溜まったものではありません。思わず「いっその事死んでればよかったのに」と突っ込みを入れたくなってしまう事も・・・。

そんな退屈な印象の強い死にかけ話ですが、あえて今回、自分の死にかけた体験を元に「死にかけ話論」なるものを作ってみました。他人に自分の体験を話すときに役に立つかもしれませんし、あるいは他人の死にかけ話が退屈しなくなるかもしれません。しかしながら、やっぱり退屈な話になってしまっているかもしれません。そのときはご容赦を。

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~~~ 死にかけ話の分類 ~~~

死に書ける話といっても様々です。本当に死に掛けたとの?というような軽い話から、よく生きているねといった重たい話まで色々とあります。まずは「死にかけ話論」を書くにあたって、そのパターンを私なりに分類しました。

まず最初の分類は、事故に遭いそうになったなどの「目に見える精神的な経験」です。これを第一の分類とします。次に、上から植木鉢が落っこちてきて死にそうになったとか、乗るはずの飛行機が事故に遭ったなどの「目に見えない精神的な経験」です。これを第二の分類とします。

第三の分類としては、ノイローゼなどによっての「自殺願望による死にかけた体験、生きているのが嫌になってしまった等の経験」です。これは意外に多いのかもしれませんが、あまり人に話さないので分かりません。ここまでの分類は現在無事でいるのなら、後で振り返れば笑い話になるでしょう。

第四の分類は話すと少し暗くなってしまいそうな経験ですが、実際に事故や病気になってしまい、その時に生死をさ迷った体験をしたという「肉体的経験」です。以上の4パターンの経験を元に、これから話を進めていきます。

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~~~ 第一の分類 「目に見える精神的な経験」 ~~~

まず第一の分類の「目に見える精神的な経験」について検証してみましょう。多分これは一番よく聞く話だと思います。「車に乗っていてトラックに突っ込みそうになった。」「崖から落ちそうになった。」ちょっと怖い話になると、「ピストルを付きつけられた。」「目の前で発砲事件があり、流れ弾がかすった。」等々の様々なバリエーションがあるのですが、よっぽど話し手がうまく話さないかぎり、事故をしたのと違って物的証拠が形に残っていないので、聞き手にはなかなか真実が伝わってきません。

話し手の方は実際に恐怖を体験してさも自慢げに話すのですが、聞き手の方も「事故になりかけ~事故~死」と、死に至る間に実際に事故になるという段階があるので、なんとなく聞き流してしまう傾向があります。 結局のところ死にかけた話なのか、死にかけるほどの恐怖を味わった話なのか、単にその場に居合わせただけだったのか、いまいちはっきりとしないのがこの類の話です。

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~ 第一の分類の個人的体験1 ~

私自身の体験でいうと、単車に乗っているので交通事故関係の事が一番多いでしょうか。例えば高速道路で前を走っている車の落下物を寸前で避けた事など、私にとっては死の恐怖以外何物でもなかったのですが、聞く人には全く面白くも、興味を引く話でもないはずです。

バイクに乗っていて同じような経験のある人とは「あれっ、マジでやばいよね。」などとそれなりに盛り上がりますが、バイクに乗らない人にとっては「よくある事じゃない」といった程度の感想です。バイクに乗らない人には実際にどれだけ危なかったかを伝えるすべもありませんし、本当のところどれだけ危なかったのかは体験した人の感覚の問題でもあります。

ただ一つ参考までに言える事は、本当に車などにぶつかりそうになって死にかけるといった思いをした後は、心臓がはちきれそうなぐらい高鳴り、1時間ぐらいは心臓が痛くてしょうがありません。多分これが世にいう寿命が縮まったとか、心臓がはちきれる思いという事なのでしょう。

それに車とぶつかりそうな時でも、悠長に「ぶつかる」という発想は出てこなく、直感的に「死ぬ!」の一言しか頭に浮かびません。もし誰かが死にかけた話をした時、その時何を思ったか聞いてみて、話し手が「死ぬ」としか浮かばなかったと言えば、本当に死にかけたんだなと判断できますし、「ぶつかる」とか、「やばー」とか思っているようでしたら、まだまだ余裕があったんだなといったところでしょうか。

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~ 第一の分類の個人的体験2 ~

第一分類の中で私の変わった体験といえば、ジェットコースターから落ちかけた事件とか、インドで警官十人にライフル付きつけられた事件などがあります。両方とも「落ちる」とか「やば~」としか思わなく、上の分類では、まだまだ甘いレベルなのですが、変わった体験なので聞き手には、本当に死にかけた時の話よりも 面白いようです。

ジェットコースターから落っこちそうになったのは、小学校高学年の時だったと思うのですが、岡山の鷲羽山ハイランドというローカルな遊園地に行ったときの出来事です。園内はがらがらで一日券を買った私と友人は、ひたすらジェットコースターに乗り続け、一番前が面白いとか、一番後ろが面白いとか試しながら十回ぐらい乗ったときでしょうか。そろそろ刺激が欲しくなり、一番後ろの座席でシートベルトを外し、後ろ向きに正座して座るという馬鹿なことに挑戦しました。昭和の話なので安全がどうのこうのといったことはなかった時代なのです。

結果がどうなるかなどは、まだ幼い私には分からなく、ただ単にスピード感が増して面白いだろうと思っただけでした。その結果、最初の下り坂の途中で体重の軽い体が宙に浮きはじめました。「やばい、こりゃやばい」とその辺りの物にしがみつこうとしましたが、一番後ろで後ろ向きに座っているものだから捕まるものがありません。でもこのままで飛ばされる。必死になって座席の表面のカバーをつまんでいた覚えがあります。

本当にヤバイと思った時、上り坂になって体がドスンとイスに着地して事無きを得ました。今思えば漫画みたいな事が起こるんだなと笑ってしまうのですが、本当にこういう事は起こるので、くれぐれも良い子の皆様は真似をしないようにご忠告します。って、最近のジェットコースターなどのアトラクションは安全装置がしっかりしているので、こういった事はできないと思いますが・・・。

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~ 第一の分類の個人的体験3 ~

インドで警官に銃を向けられたのは、ボンベイでの出来事です。夜遅くボンベイに到着して、タクシーで安い宿に向かう途中で検問に引っかかりました。最初タクシーが停止線の手前で止まりすぎて、警官が「前に出ろ」と唸り、タクシーが前進したら、今度は停止線を越えて警官に突っ込みそうになり、一斉に警官が我々に向かって肩に担いでいたライフルを向けたという出来事です。その時は、怖いというよりは、10人もの警官のライフルを担っている状態から、構えるまでの動作があまりにもスムーズでかっこいいと見とれてしまいました。

というより、あまりの出来事に周りの風景を含めてすべてがスローモーションで動いているような感じで、ゆっくりと構えられるライフルに見とれてしまったというのが正しいでしょうか。おそらくタクシーの運ちゃんが最初に止まったときに「へたくそ」とでも怒鳴られ、頭にきての仕業だと思うのですが、万が一警官にでもぶつかっていたら、何のためらいもなく蜂の巣になっていたかもしれません。その時は変わった体験をしたぐらいにしか感じなかったのですが、後から考えるとちょっと怖い体験に感じます。

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~ 第一の分類の個人的体験4 ~

それ以外ではとてもドジな笑い話があります。高台にある遺跡を見学中、カメラのファインダーをのぞいて、もっと左、もっと前だと構図を決めていたら、足元に何もなくなっていてそのまま下に落下。危なく30m下に落ちるところでしたが、運良く2m下に足場があり、そこへ着地して軽い捻挫だけですみました。まるで漫画の世界です。最近では歩きスマホが問題になっていますが、まあ似たものでしょうか。

よく聞くと思いますが、危ないと思った瞬間はスローモーションで目に見える光景が流れていくものです。もちろんこの場合の私もそうでしたが、近くで見ていた旅行者が言うには、見ているほうもスロー再生のようになったそうです。感覚が研ぎ澄まされるというのでしょうか。

そのほか、洞窟に入るのにそんなに長い距離ではないと思いライターの火をつけながら進んだものの、意外に奥が深く、しかも途中でライターが壊れ、洞窟の中で立ち往生した事もありました。真っ暗の中では立っていることすらできず、地面にはいつくばって手探りで来た方へ戻って何とか助かりました。真の闇の中にしばらくいると、幻覚というものが見えるし、大声で助けを呼んでも反響して耳がおかしくなりそうだし、最終的に助かるとわかっていてもちょっと怖い体験でした。

これらの事は死にかけるというには大した出来事ではないのですが、交通事故などの日常的な出来事よりは色々と脚色を付けて話す事ができるので、話す方も聞き手に合わせて話に強弱が付けられて話しやすいです。聞き手も日常的な事から離れているので、聞いていて想像力をかきたてられて面白いみたいです。単に交通事故になりかけた程度の話では、聞き手も退屈してしまうので、よほど変った体験以外は話さないほうがいいように思います。

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~~~ 第二の分類 「目に見えない結果論」 ~~~

第二の分類としては、本人は怖い体験をしていなく、後から助かったと感じる目に見えない経験、つまり運よくとか、タイミングよく助かったという体験についてです。これは、そんなに多く耳にすることではないと思います。

例えば、歩いていて上から植木鉢や、工事のスパナが目の前に落ちてきて、その瞬間は何が起きたのかわからなくても、すぐにあと一歩前、或いは一歩後ろで歩いていたら死んでいたかもしれないと分かり腰を抜かしたような出来事や、新聞に載るような飛行機事故の飛行機に乗り損なって助かったという話題性のある出来事まで幅広くあります。

前者の方は助かれば漫画的な出来事で片付きますが、実際に死んでしまった場合、なんて運が悪いんだといったやるせないような不幸的要素の強い出来事になってしまいます。後者のほうは、新聞に載るような社会性のある出来事なので、他人も聞いていて興味を持つとは思いますが、実際に人が死んでいるから話題になっているわけで、明るい笑い話にはなりません。

両者とも交通事故などと違って、不意にやってきた瞬間的な出来事だったり、結果論なので、話しの拡張性に欠けますが、そのぶん勝てば官軍的要素が強く、ある事ない事を勝手に脚色をつけて話す事もできたりします。例えば乗り遅れた理由が寝坊なのに、女に泣きすがられて・・・といった感じに。まあこれは大袈裟な例えですけど・・・。

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~ 第二の分類の個人的体験 ~

私の体験でいえば、中学校に入学してまだ日が浅い時の事ですが、昼休みにクラスメイトと校庭でサッカーをしていました。ポジションはゴールーキーパー。ちょっと風が強く、砂埃が舞い上がってやりにくいなと思いながら守っていると、突風が吹いてサッカーゴールが倒れてきました。もちろん私はサッカーゴールとは反対を向いているキーパーなので、自分の後ろでそんな恐ろしい事が起きているとは全く分かりませんでした。

その時はちょうどボールが前に転がってきたので、これは前に出たほうがいいぞとダッシュしていました。みんなの顔が見えたのですが、なんか指を差して口を開けていて騒いでいる感じ。何を大袈裟な。おう、任せておけ。ってなぐらいにしか思っていなかったのですが、でもなんかちょっと変・・・と思った瞬間、自分も風の吹き飛ばされ、頭の後ろを何かがスコッとかすりました。

その後は、瞬間的に気を失い、気が付いたらサッカーゴールのネットに寄りかかって倒れていました。あれ~一体どうなっちゃったんだ。な、なんで倒れてるの。げ、後ろにサッカーゴールが倒れているし・・・。みんなに事の次第を聞いて、ようやく何が起こったのかがわかった次第です。

でも その後が大変で、本人はぴんぴんしているのに、救急車を呼べだとか、保健室に担ぎ込めだとか、大騒ぎになり、校内の放送でもそのことを放送されて一躍有名人。えらい恥ずかしい思いをしました。もちろん下敷きになって、次の日の新聞の三面記事になるよりはよかったけど・・・。助かったから笑い話になるというものです。

が、助かっても笑えない話を書くと、その時の担任に呼ばれて職員室に行くと、「まだ入学したばかりで日が浅いから、死んだ場合マスコミの人にどんな子だと聞かれたらどう答えようかと悩んでしまったよ。」と笑いながら話しかけてきました。入学式の時からこの先生とは一悶着あったのですが、この日から完全に冷戦状態。もっとまともな事は言えんのかいと幼き日の私は憤慨していたのでした。

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~~~ 第三の分類 「自殺願望」 ~~~

第三の分類としては、ノイローゼなどにより精神的に参り、自殺しようかと考えたが、結果として生きていて助かったというものです。これは聞く方にしてみればつまらなく、少なくとも同じ境遇を体験した人、もしくは本当の信頼関係を持っている人や人生経験の多い人にしか話さないほうがいいでしょう。もっとも話す方としても心の暗い部分なのでなかなか他人には話しにくいものだと思います。

ただ、よく旅先で出会った人などに何故か心を開いて過去の話してしまう人もいます。私も何度か旅先でそういった話をされた事がありますが、会って一日ぐらいなのに信頼されても・・・と思ってしまうのですが、あれは何故でしょうか?よくよく考えると結構不思議なものです。

心理学的というか、経験的に言うならば、会社などでやめるやめると騒いでいる人に限ってなかなか辞めなかったりします。それと同じ事で死にたいと気軽に話す人はなかなか死なないもので、単にかまってもらいたいだけなのかもしれません。本当に死にたいと思う人は誰かに話して止められたくないものですから・・・。でもやはりこういう話は聞かされる方はなかなか辛いものです。どういう対応をしていいのか困るというか、面倒だからと下手な対応したら・・・。

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~~~ 第四の分類 「苦痛を伴った経験」 ~~~

第4の分類としては、体の苦痛を伴い死にかけた経験です。多分これが聞いていて一番死を連想すると思います。これまでの三つは「もし」という仮想の話しを伴っていましたが、これは現実的で話に重みがあるからです。重い病気や事故で危篤状態をさ迷ったことや、地震などで瓦礫の下に閉じ込められて運良く助けられたなど色々な事が考えられます。

よくテレビで奇跡の生還と題してスペシャル番組が組まれることがありますが、そういった話は全てこの部類に入ります。とは言うものの、三途の川の一歩手前まで行ったことのある人から、死ぬんじゃないかなというレベルの体験まで様々だと思いますので、三つの段階に分けて話しを進めていきます。

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~ 第四の分類の第一段階 ~

まず第1段階として「死ぬんじゃないかな」。人間何か事あるとマイナスに考え、このまま死んでしまうのではないかと考えてしまうものです。夜中に足がつり、痛さのあまりこのまま死ぬのではなんて思うのは私だけかもしれませんが、似たり寄ったりのことを思った事はありませんか?

事故をして倒れている時に、このまま死んでしまうのでは・・・。重い風邪を引いた時に、このまま意識がなくなって死んでしまうのでは・・・などと思ったことはありませんか?こういった場合、後から考えると、ばかばかしく思えたりしますが、その場で実際に苦しんでいる時には真剣そのもので、全く精神的に余裕がないのでパニック状態になりがちです。こういう場合は得てして正しい知識を持ち合わせていれば防げる事が多いかもしれません。

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~ 第四の分類の第一段階の体験談 ~

私の体験は変わっていて、オートバイに乗っていて家の手前50mぐらいに差しかかった時、前方からゴルフボールぐらいの大きさがある黒い塊が飛んでくるのが見えました。それが熊蜂だと気が付いた時はすでに時遅し、避けきれずぶつかってしまいました。胸元が広く開いたライダースを着ていたので、心臓のちょっと上辺りに痛みが走りました。くそ~痛いな~と思いながらも家の前まで辿り着き、バイクを降りようとしたらうまく足が動かなくなり、バイクから転げ落ちるように転倒してしまいました。

そのまま体がしびれるような感じになり、うまく呼吸も出来なくなり、ちょっと息苦しい感じでした。うっ、なんかやばいぞ~。このまま死んでしまうのか。そんな事を考えながらもがいていると、たぶん3分ぐらい経った頃だと思いますが、徐々に息が楽になってきて、体の痺れが取れてきました。どうやら助かったみたいだ・・・と、ようやく安堵した次第です。

蜂もビックリして毒を完全に出さなかったのか、蜂の毒に私が勝ったのか、よく分かりませんが、まったく胸をなでおろす出来事でした。バイクに乗っていて、電信柱やガードレールにぶつかって死ぬ人はいても、蜂にぶつかって死ぬ人なんて聞いたことがないですからね。

また海外旅行中、マレーシアのボルネオ島でのこと。赤道直下の熱帯でいきなりの寒気に毛布にくるまって震えるという経験をした事があります。東南アジアの熱帯といえばマラリアとかデング熱という命に関わる怖い病気があります。もしかして・・・、この症状はマラリアでは。着れるだけの服を着て、あるだけの毛布にくるまり、明日の朝無事に起きれるだろうかと心配しながら寝たこともあります。

その時はよくマラリアというものをよくわかっていなかったので、これは本当にマラリアなのだろうか。もしかしたら寝れば治るんじゃないかと安易な対応をしてしまったのですが、もし強い毒性を持ったマラリアだった場合、やばかったに違いありません。後日病院に行き血液検査をしてもらうとマラリア菌は見つからなかったという事なので、弱いマラリアだったのか、単なる体調不良の一種だったのか不明ですが、言葉の通じない国で、一人でこういう状態になると本当に怖いものです。

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~ 第四の分類の第二段階 ~

第二段階として「このまま死んでしまうのか」。第1段階は死ぬかもしれないとまだ幾分心のゆとりがある体験でしたが、第二段階は意識が朦朧としてきて、三途の川を見下ろすところまでやってきたような体験です。言ってみれば後がないところまで来てしまった体験です。

事故や災害などで生き埋めなどにあい、意識が朦朧としてきてもう駄目だという時に助けられたり、火事場の馬鹿力というのか、人間の生命力の神秘とでもいうのか、そのような力で自ら危機を乗り越えたことなど、よく感動の話しとしてテレビのスクープになりそうな話です。

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~ 第四の分類の第二段階の体験談 ~

私自身の体験は、若干ずれているかもしれませんが、ある夜、寝ている時に急に息が出来なくなり目が覚めました。痰が詰まったらしく、息をしようにも僅かしか息が入ってきません。最初の内は必死になって呼吸をすることばかり考えていました。

でもこれではジリ貧なのです。だんだんと息苦しくなり、酸素不足のためなのか意識が朦朧としてきました。家族に助けを呼ぼうにも声が出ないし、動くこともできないので無理。もう駄目かも。終わったな。諦めムードが漂ってきて、俺はこんなところで死ぬのかと悔しくて涙が出てきました。

いよいよ最後だな。死んでしまうのかと覚悟した時、肺にあった残り僅かな空気が咳となって出てきました。本能なのか、出るべくして出てきた咳なのかはよく分かりませんが、この咳が詰まっていた痰を押し出してくれました。息ができるというのがこんなにありがたいものだったのか。呼吸というのはこんなに気持ちいいものだったのか。薄れいく意識の中で思ったのは覚えています。

その後は安堵の為か、精神的疲労のためか、そのまま気を失ってしまったようです。後で考えれば、詰まっているのだから、息を思いっきり出してやればいいのですが、いきなり痰が詰まった状態で目が覚め、息をしなければ死ぬという状態では逆の発想が出てくるはずもありません。苦しみもがきながら、ただひたすら息を吸込むことばかり考えていました。実際に痰が詰まって死ぬ人も多いみたいで、常に冷静にならなければいけないとしみじみと感じ、あの苦しみを考えると、絶対窒息死だけはしたくないと思いました。

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~ 第四の分類の第三段階 ~

第3段階「ここはどこ」。一応最終段階です。人間は事故などに遭った場合、ぶつかる瞬間に本能的に痛みを和らげるために意識を飛ばしたり、嫌な思い出を残さないように記憶を飛ばしたりします。そして目覚めた時、記憶の混乱で「ここはどこ」といったことになってしまいます。

このレベルまでくると、こういう体験をした人は少ないと思います。更にはその時に三途の川を見たとか、あの世を覗いたとか、誰かが手招きをしていたとか、家族、友人の声でこっちの世界に戻ってきたといった話などを耳にします。果たしてこういった体験は本当なのでしょうか。ここではそういった話を自分の体験を元に検分してみました。

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~ 第四の分類の第三段階の体験談 ~

私の体験を書くと、友人とスキーに行った時の話です。その時は、ちょうど記録的な大雪の日に当たってしまい、スキー場は新雪が積もり、雪が柔らかい状態でした。怖いもの知らずの私と友人は二人で山頂の方まで意気揚揚と行ったのですが、下りかけていると急に吹雪いてきて、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。急な斜面を降りようにも柔らかい新雪と、視界の悪さと、自分の技術の未熟さの為、まともに滑って降りる事が出来なかったのです。

困ったぞ。どうしよう。どうにもならんけど、じっとしていると体が冷えてきてそれこそまずいのでは。友人と相談して、とりあえずスキーを脱いで少しずつ山を下ることにしました。しかし歩いて降りようにも斜面がきつすぎ。歩いてスタスタと降りるわけにはいかなく、尻で少しずつ滑りながら降り始めました。これではなかなか進まないけど、体を動かしているほうがいい。でも方向がちゃんとあっているのかわからないのがちょっと不安。このまま遭難して凍死してしまうのではと、不安は募るばかりでした。

しばらくそうやって下り続けました。私のほうが友人よりも斜面の下にいたのですが、上から降りている友人の「わぁー」と言う声が聞こえてきました。なんだ!どうした。すぐに上を見ると、友人が私の方に向かって転がってくるのが見えました。そしてそれを避けなければ・・・と思ったものの、斜面で足場が悪いし、雪のために自由が利かなかない。まずい。ぶつかる。避けようと体をちょっと左に動かしたところまでは覚えているのですが、その後の記憶は全くありません。どうやらまともにぶつかったみたいです。しかも勢いよく。

気が付いたら私は不思議な感じのところにいました。言葉では説明しにくいのですが、ふわふわした感じの所で、ちょうど「風の谷のナウシカ」の最後の場面で、ナウシカがオウムの触手の上を歩くシーンに似ていました。そう、まるで黄色の花畑を歩いているといった感じでした。妙に気分が良くて、鼻歌交じりに歩いていた気がします。ここはどこだろう。夢なのか現実なのかよくわかりません。ただ普段見る夢とは違い、妙に意識がはっきりしていて、この時自分は死んでしまったんだなと感じていました。

死んでしまったのか。どうして死んだのだろう?思い出せない・・・まあいいか。なんかよくわからないけどしょうがない。そうか死んでしまったのか・・・。やり残した事は・・・。まあいいか。あまり悲壮感はありませんでした。とても気持ちのいい状態だったからです。

後から考えれば、体温が下がり、脳波が弱くなると本能的にこのような気持ちのいい夢を見るようです。凍死が気持ちいいといわれるのがいい例です。医者の人から聞いた話では、人間が死ぬ間際や極度の痛みを経験した時には脳からなんかの成分が分泌され、とても気持ちのいい状態になるとの事です。簡単に言うなら、脳内麻薬といったようなものになるようです。死ぬ間際に多くの人が穏やかな死に顔になるのはこの脳内麻薬のおかげだと聞きました。

事故にあって意識不明の状態に陥った人に聞いても、やはり私と似たり寄ったりの何か気持ちいい夢を見たと言っていましたので、その内容や場面はその人の潜在的なものによるのでしょうが、天国にいるような心地よさは概ね共通しているようです。俗にいう天国を見てきたというのは、この事に起因しているのではないでしょうか。

ただ三途の川など地獄絵図を見てきた人もいるわけで、こちらに関してはよくわかりませんが、よほど激しい苦痛、もしくは悲惨な光景を目撃した後に意識が飛んだ場合はこうなるのかもしれません。あるいは本当に地獄へ行っていたのかも。私が聞く話は天国っぽい話しか聞かないので、もしかしたら私の周りは私を含めて善人ばかりなのかな・・・。

話を私の体験に戻すと、気分よく花畑のような場所を歩いていると、どことなく私を呼ぶ声がしてきました。なんだろう。この辺りから気持ちよさがなくなり、少々混乱し始めました。なんだ誰が私を呼ぶんだ。もしかして閻魔様?逃げなければ。逃げようにも足が空回りして前に進みません。このじれったさというか、もどかしさは普段よく見る夢のような感じです。

再び私を呼ぶ声が聞こえます。今度はその声が友人のものとわかりました。なんだ。あいつか。何の用だ。邪魔しないでくれ。意識を飛ばそうとすると、無理やり起こされてしまいました。ここはどこ?なぜ雪の中。黄色い草原は?現実に戻ったのですが、まるで状況が把握できませんでした。意識が朦朧として考えることができないのです。

起こさないでくれ。さっきの夢の続きが見たくて、また意識を飛ばしました。しかし、すぐに友人にたたき起こされました。その繰り返しが、数回繰り返された後、やっと私の意識が少しはっきりしてきました。そして、雪の中に血だらけになって倒れている自分に気が付きました。なんで倒れているんだ。雪の中で。え~と、スキーをしていて・・・、そうだ吹雪いてきたんだ。その後、・・・そうか、ぶつかったのか。そうかそうな気もするような・・・。ようやく記憶がつながってきました。

しかし頭はまだはっきりしません。寝ぼけているというか、まるで大量の睡眠薬を飲まされた後のような感じでした(実は睡眠薬強盗にあうといった危険な体験があったりします・・・汗)。友人の「寝ると死ぬぞ」といった切羽詰った声も「そうなんだ~」といった感じで他人事。あまり耳に入りませんでした。

私の体験から言うと、意識が飛んだ時の夢は妙にはっきりしていて、一方、事故の場合はその時の事を覚えていない事が多いので、病院などで目覚めた人の大半は記憶の混乱が起こります。「ここはどこ?」 コントのようにドラマなどでよく使われる言葉ですが、実際に患者からは無意識に出る言葉なのです。

しかも、その時の患者の精神状態は非常に不安定なので、落ち着いてからゆっくりと事のあらましを話すほうがいいと思います。誰かを失ったとか、体の一部が障害をきたしているなどといった重大事項は慎重に話さないとパニックに陥ってしまう可能性があるからです。

再び私の体験に戻ると、その後の山を下った記憶はほとんどありません。友人に言わせると、ずっとぶつぶつうわごとを言っていたとか。そしてリフト小屋まで辿り着いて、温かい飲み物をもらい、多くの人に「大丈夫か」と声をかけられたあたりから記憶が鮮明に残っています。

そして体温が下がっていたせいと、意識が完全に戻って事態の大きさにビックリして急に振るえが止まらなくなってきました。その後は、レスキューのスノーモービルで一番下まで運ばれ、親戚の病院にタクシーで運ばれました。親戚には、夕方滑り終わってから挨拶に行こうと思っていたのですが、こういう形で挨拶になろうとは、さぞ向うもビックリした事でしょう。とりあえず私は・・・、非常に気まずかったです。

結局、顔を六針、前歯2本折ってしまいました。助かったからよかったものの、もし友人も頭を打って気を失っていたら二人共氷の塊となっていたかもしれません。逆にもし友人が私にぶつからずそのまま下に落ち続けていたら、谷底に落ちていたり、木にぶつかっていたかもしれません。って、どういった場所でぶつかったのか知りませんが・・・。

よく自分の腕を過信しすぎると痛い目にあうぞと言われますが、まさにその典型的な例となってしまいました。さすがにこの経験は無鉄砲な性格の私も堪えました。それ以後、スキーには行く気にならなく、全く行っていません。

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~~~ 死にかけ話のまとめ ~~~

ここまで読んでくれた人はどれくらいいるでしょう。それこそ死にかけるよりも確率的に少ないかもしれません。まあなんていうか、やっぱり他人の死に掛ける話なんていうものは聞いて面白いものではありません。単刀直入にいうなら他人が死にかけようがどうでもいいのです。

配偶者や子供が死に掛けたらそれこそえらいこっちゃと大騒ぎになり、原因は何だ。誰のせいだ。と熱心な議論になります。親や友人の場合でも同じでしょうが、少しトーンは下がるでしょうか。親戚や知り合いになると、大変だったね。どうだったの・・・と過去形になり、友人の友人などといった直接の知り合いではなくなるとそれは大変でしたね・・・と完全に他人行儀のどうでもいい話になります。他人が死にかけた話なんていうのはやっぱりどうでもいいのです。

でも、他人が死にかけた話の中には世の中で重宝がられているものもあります。それは自分に降りかかってくるかもしれない防災関係の話、あるいは闘病生活の話などがそうです。こういった話なら真面目に聞くのではないでしょうか。もし自分が災害や火事などに遭ったらどう逃げようか・・・。癌にならないためには何を気をつければいいのか。癌になった場合どうすれば助かるのか・・・。などです。ここが生死を分けたポイントになったと言われれば、ふむふむ。メモしておこう。自分もそうなった場合、同じようにしようなどと思ってみたりするのではないでしょうか。

それ以外の死にかけた話というのはわざわざ聞きたいと思わないし、聞くとしても話が面白いとか、楽しいとか、ためになるようでなければ長々と聞いていられないといった感じではないでしょうか。自分に関わらない死にかけ話など、その人の武勇伝でしかなく、例えは悪いですが、老人の昔の自慢話のようなものです。

だったらわざわざエッセイに書かなくても・・・と言うことになるのですが、酒の席で面白おかしく、旅の話の延長的な感じで話すと興味深く聞いてくれます。もちろん少々オーバーに話しますが・・・。この場合は知り合いの死にかけた話となるので多少なりとも興味を持って聞いてくれているのもあるかと思います。その延長で俺って凄い経験をしたんだぜって感じで気分よく書き始めたのですが・・・、途中から自分でもなんかいまいちな内容だな・・・。他の人が読んでも面白くもなんともないのでは・・・って思うようになってしまったわけです。

結局のところ、死にかけた話と言うのは旅の話と一緒で、日常のありきたりな旅行のようでは退屈であり、ちょっと現実離れした死にかけた話なら話し方によっては面白い部分もあるかなといったいった感じです。話し方、あるいは話す場面にも寄るのでしょうが、明るい笑える話題にもなります。でもやっぱりこういった話はアルコールの席での話題がいいところなのかなと思ったりします。もちろん悲惨な話とか、マイナス要素のある話はわざわざ聞きたいと思う人はいないでしょうから厳禁です。

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~~~ 死にかけた経験から思うこと ~~~

こういった死に掛け話をすると、「おまえは運のいいやつだ」と言われる事があります。しかし、私から言わせてもらえば、死にかけるような経験をしない方がよっぽど運がいいと思います。少なくとも私も死んでいないところをみると運は悪くはないとは思いますが・・・、絶対にいいとは思いません。死にかけるという事自体、恐怖や苦痛を伴う事が多いのですから。

また、死にかける事が多いと、少し人生観が変わってくるものです。このまま死なないのじゃないか?いや死ねないのじゃないか!きっと俺は不死身だ。なんて思った事もありました。しかし実際に目の前で人が簡単に死んでいく光景を見ると、逆になんでこうもあっけなく死んでしまうのだろうと、その虚勢が虚しくなってくるものです。後輩が36歳で突然心筋梗塞を起こして死んでしまったときなどがそうです。自分も死ぬ時はこんなにあっけなく終わってしまうもんなのだろうか。ある日突然、全てが終わってしまうものなのか。子供の将来も見届けずに色々とやりたいことも中途半端な状態で・・・。

最近では、「人間は死ぬまで不死身だ。」というのが私の持論です。人間は死ぬまではなかなかしぶといのですが、死ぬ時はあっけないものです。それが天寿、運命などと考えれば納得できるのではないでしょうか。もちろん若くして交通事故や不慮の事故でなくなった方の遺族などは納得できないと思います。事故に遭わなければもっと長く生きられたはずだと。そしてやるせない気持ちで一杯なことでしょう。

でも現実は目の前にあるがままの状態なのです。なぜって考えても答えが出てきません。運命としか言いようがないからです。おそらく健康管理、注意力、危険回避など日々の積み重ねの何かがあるのでしょう。助かる助からない、事故に遭う事故に遭わない。それが紙一重の差だとしても・・・。そう考えると人の生死と言うのはとても不思議なものです。でもなかなか日常でそういったことを実感できないというか、考える機会はないのが実際です。

もし生死を分ける要素が運以外なら、少し生き残る可能性を引き寄せる事はできると思います。例えばぶつかる瞬間。もうだめだと目をつぶる場合と避けようと何かしようとする場合、もちろんどちらが助かるかはやっぱり運次第かもしれませんが、冷静に助かろうとする気持ちがあれば、助かる可能性は上がると思います。

例えば日本的な例を挙げると、母親と子供が歩いているところに車が突っ込んできたとします。母親は子供を守らなければと、とっさに車に対して背中を向けて子供の盾となろうとします。そして・・・といったような話は昔話などでも耳にしたことがあるかと思います。これぞ母親の鏡といったところでしょうか。

しかしこれでは子供が助かるかどうかは微妙なところ。母親は確実に事故に遭い、子供は運次第。母が子供を守って死んだという話は日本では美談として扱われますが、助かるべき命を捨ててまで美談を作るのはバカげています。冷静になって考えれば、母親として失格です。車が突っ込んできたなら、ちゃんと車(現実)と向き合って子供を逃がす努力をし、そして自分も助かる努力をするのが本当の母親の姿ではないでしょうか。

こういう場合に必要なのはとっさの判断力であり、自力で助かろうという気持ちです。これが生死を分ける重要な要素となります。駄目だと目をつぶっていては、それこそ運まかせとなってしまいます。いきなり降りかかってきた危険に対してパニックにならずに現実視できるかどうか。とはいうものの普段から鍛えるのにはちょっと無理があるかもしれません。車の運転シュミレーターやテレビゲームとは訳が違って、実践でのみ鍛えられるものですから。でもやらないよりはやったほうがいいです。避難訓練などがいい例です。こんなのは無駄だと思わずぜひ積極的に参加しましょう。いざという時に自然とこうしなくちゃと体が動いてくれるかもしれません。

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~ 最後に ~

長々と書いてきましたが、これはあくまでも私の体験に基づく個人的な考えです。何言ってんだと感じる人も、当たり前だと感じる人も、共感を持ってくれる人もいるかと思います。人の生死や人間の寿命といった目に見えないものはそれぞれの価値観、宗教観に準じるものですから、何が正しいと決めつける事のできるものではありません。それぞれが正しくもあり、それぞれが日々精一杯生きているのですから。

また、死後の世界とか、神様や魂の有無といったようなことは、それぞれの心の中にそれぞれの価値観で存在しているものです。そしてそういった価値観は心理の深いところでその人間の人格を形成していたりするので、他人の宗教観や考え方を尊重し、また自分の考え方も大事にしたほうがいいと思います。それが心の奥底で生きる支えになったり、緊急事態の時に生死の分かれ目になることだってあり得るのですから。

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