風の結晶 ~風の旅人エッセイ集~

~ ぶちぶち歯医者日記 ~

***  第6章 果ては東南アジア  ***

「風の旅人」と自負する私は、一世一代の大イベントと題して、長期で海外旅行を行うことにしました。よしっ、憧れのユーラシア大陸に挑戦するぞ。これで私も一流の旅人の仲間入りだ。でも一流の旅人とはなんぞや?・・・まあいいや。とりあえず頑張るぞ。若者は広大な世界に向けて旅立ってこそ一人前になれるんだ。と、まぁ豪語しつつも、不安がないわけではありません。

無事日本に帰って来れるだろうか?もし帰ってきても、ちゃんと社会復帰できるだろうか?今のまま暮らしているほうがいいのではないか?様々な思いが頭をよぎるものの、それはそれ。行って後悔するのと、行かないで後悔するのとでは、行って後悔するほうがいいに違いない・・・といった少々屁理屈が混じった決意の元、1年以上日本を離れることを決意しました。

line

長旅だ。念入りに準備をしなければ。それよりも先立つものを貯めなくては話になりません。日々働きながら暇を見つけてどこの国に行こうかなどと夢を膨らませながらあれこれと情報収集したりしていました。そしてお金もだいぶん貯まったし、そろそろ本格的にルートを決めたり、出発日を決めたり、仕事を辞める準備をしなければ・・・と真剣に考え始めた頃、思わぬハプニングが発生してしまいました。

スキーに行ったときに、なんと前歯が2本も折れてしまったのです。いくらなんでも前歯がない状態で旅するのはまずいだろ。第一印象が悪くなるし、みっともない。それに訳の分からないバイ菌でも入ってきたら大変。仕方なく出発を延期して、歯の治療を優先させることにしました。そしてご存知の通り、前歯は差し歯という形で、なんとか治療が終わりました。神経を抜かなかったせいか、はたまた運が悪いのか、それともいいかげんな性格のせいか、きっと様々な事が因果したのでしょう。思いのほか治療が長引いてしまう事となりました。

line

そしてやっと治ったぞと思えば、親知らずが生えてきて、更には再び虫歯となってと、悪循環。一体いつになったらこの歯医者地獄から抜け出せるのだろうか。このまま歯医者にかかりっぱなしで、永遠に旅行に行けないのではないか。そんな消極的な考えではいかん。発想を変えて「世界一周歯医者巡り」をすればいいではないか。訪れた旅先の地で歯を治していけばネタ的には面白いぞ。これは何とも個性的・・・じゃなくて、痛そうな旅だ。間違ってもそんな旅はしたくはありません。一時期治らない歯に対して憂鬱になっていましたが、やはり人生というものは耐えていればいいこともあるもので、なんとか治療終了の出口が見え、出発のめどが立ちました。

line

旅行の出発が迫ってきた頃、身辺整理に、持ち物の準備など、なかなか忙しい毎日を送っていました。そんな忙しい中、出発の前日だというのに歯医者へ行かなければなりませんでした。もちろん歯医者の先生には一年以上日本を離れることは告げてありました。今回の治療は前回治療した奥歯のサシ歯の具合の点検と歯のクリーニングでした。

そして治療の終わりに、さりげなく先生に「海外でも大丈夫ですよね?」と聞くと、「毎日歯を磨いて口の環境をよくしておけば問題ないでしょう。」と、少々頼りないけど太鼓判を押してくれました。これは心強いと、笑顔を作るものの、全く信用していませんでした。トラブルは私の専売特許。まして歯に関しては、今までの経緯を考えると絶対に何か起こるに違いない。

歯の痛みは我慢して治るものではないので、長年の教訓を生かし、最後に先生に「長いことお世話になりました。何かあって痛い思いをするのは嫌なので、できれば鎮痛剤を処方してください。」とお願いしました。そして受付で診察代を払い、大量の鎮痛剤を片手に歯医者を後にしました。もう虫歯とかの治療で来る事はないよな。きっと・・・。いや、帰国した翌日に駆け込むような事態になっていたりして・・・。

line

万全ではないにしろ、とりあえず私の歯の状態は良くなったはず。なるべく旅行中は歯の事は考えないようにしよう。それが一番の対処方法かな。気にしても切りがないし、なにより気にする事で神経が炎症を起こしたら大変。鎮痛剤は沢山もらったので、少々のことがあっても大丈夫。歯の鎮痛剤を持って旅行するっていうのはなんとも私らしい。まあ鎮痛剤で歯の病気が治るわけではないけど、精神的なお守り代わりにはなるはずです。そう思いながら鎮痛剤と共に私は異国の地を目指し、日本を旅立ったのでした。

<ベトナムにて>

日本を旅立って2ヶ月が経ちました。もう虫歯になるのは勘弁だと、旅行中でありながら毎日熱心に歯を磨く私がいました。とりあえず一番の不安要素である差し歯の調子は今のところは問題なし。もちろん新たな虫歯もできていません。全てにおいて順調に旅行している最中、ひょんな事からベトナムの片田舎でホームステイをする事になりました。

これもいい人生経験だ。本音は女の子が可愛いから・・・えへぇ~と、まあそんな事はさておいて。ホームステイをしながらも、長いこと歯医者に通っていたせいで、歯のことが気になります。もちろん自分の歯もですが、他人の歯も気になってしょうがありません。なんか変な生活習慣病になってしまった感じです。

line

ベトナム人の家庭で暮らしていてビックリしたのは、ベトナム人はあまり歯を磨かないことです。全く磨かないわけではないけど、磨くのは朝だけ。夜に虫歯ができるとは学校で習わないのだろうか。さあ寝るぞと寝支度をしていて、歯を磨いているのは私だけ。すぐにみんな寝始めてしまいます。

それを横目に歯を磨き続けている日々が続くと、いい加減ばかばかしくなってきます。私も朝だけにしようかな。面倒くさいし。夜一人では磨くのは寂しいし。いや、そういう考えでは駄目だ。できる限り毎日歯を磨くことにしたんだ。私は虫歯にならない人間として改心したんだ。ぼやきつつも異国の空の下、月に向かって一人で寂しく歯磨きをする私がいました。

line

よくこっちの人は虫歯にならないもんだ。軟弱な日本人と違って体のつくりが違うのだろうか。ベトナム人はすごいな。さすがはベトナム戦争でアメリカを負かしただけはある。うんうん。とまぁ感心する日々を送っていたのですが、しばらく生活していると恐ろしい事実が判明してきました。みんな虫歯になっているではないか。というより、虫歯だらけ。そのくせ甘いものが好きときたら、開いた口がふさがらないというものです。

なんちゅう神経をしているんだ。虫歯が怖くないのか。歯医者が怖くないのか。この無神経さから察するにきっと歯にも神経がないに違いない。昔の自分の事を棚に上げて、遥かなる異国の地ベトナムで一人憤慨。よしっ、ベトナム人を虫歯から救うぞ。きっとこれが私の使命に違いない。日本とベトナムの友好の輪。自称青年海外協力隊、歯磨き宣教師フランシスコ・デンティストになる事にしました。

line

しかし布教活動は困難を極めました。私がいくら「夜に歯を磨けば虫歯になりにくいんだよ。」と言っても、歯は朝磨くものだと聞く耳を持ってくれません。染み付いてしまった生活スタイルなのでしょう。夜に歯を磨くという面倒くさい習慣を今更取り入れるより、虫歯になる方が彼らに感覚にあっているようです。まるで昔の自分を思い出します。やっぱ、そうだよね。郷には入れば郷に従えと言うし、歯磨きなんか面倒くさいよね。ベトナム人は話がわかる。うんうん。って、同調している場合ではない。

今では私は歯医者教の信者。虫歯にならないように布教しなければ。しかし、幾ら言っても聞く耳を持ってくれなければどうにもなりません。というか、ベトナム人はかなり頑固な性格のようです。例えばベトナムではお化けのQ太郎が忍者のQ太郎として売られているのですが、これは忍者ではなく、お化けなんだよと言っても、これはお化けではなく、忍者なんだといって聞いてくれなかったりします。まあこんな感じなので、一度先入観を持つとなかなかそれを払拭できないようです。という事で、現状では虫歯になるのも八卦、ならぬも八卦。神の思し召しのままにといったところでしょうか。

line

では一体虫歯になったらどうするんだといえば、我慢できるところまでほったらかし。我慢できなくなったら歯医者に行って削って詰め物をしてもらう。こっちにいい加減な治療では、それは一時的なものに過ぎません。しばらくすると虫歯が再発し、ひどいようだったら、その歯はもう駄目だと抜いてしまいます。抜いた後は入れ歯。だからいれ歯屋さんの多いこと。

聞いた話では、アフリカではいい歯医者さんの前には抜いた歯が山積みになっているとか。ここでも状況はあまり変わらないに違いありません。その話を思い出すと、とたんに怖くなってきました。ここで歯医者には行きたくない。治療の施しようのある歯まで抜かれてしまいそうだ。ベトナムの夜空の下、相変わらず一人でせっせと歯を磨く私がいました。

<インドネシアにて>

日本を出てから半年が経ちました。相変わらず差し歯の状態はいいし、虫歯にもなっていません。もはや歯を磨くことに関しては生活の習慣の一部になっているので、歯については特に気にすることのない日々を送っていました。ただ一つ問題があって、ご飯に入っていた石を噛んでしまうといったアクシデントがあり、奥歯のちょっと手前の歯が少し歯が欠けてしまいました。ただ今のところはそのことによる痛みや不便さは感じていないので、まあ全体的に順調かなといった感じです。

旅の方はというと、旅から段々と冒険と呼ぶに相応しいものになってきました。なるべく日本人旅行者の来ないようなところへ行こうと、カリマンタン島の奥地へ突撃旅行。先住民の伝統的家屋ロングハウスと呼ばれる家を泊まり歩きました。こんなジャングルの真ん中で暮らすのは不便だな。こんなところで虫歯になったらどうするんだろう。やっぱりすぐに歯を抜かれてしまうのだろうか。はははっ。人ごとのように考えていたら、ある日恐れていた事が起きてしまいました。噂をすればなんとやら。余計な事を考えなければよかった・・・。

line

「珍しいな。こんなジャングルの奥地に日本人かい。50年ぶりだ。」って事は太平洋戦争以来って事。そりゃ珍しいわ。こっちとしては珍しい原住民の生活が見たくてやってきたのですが、逆に向こうの方が珍しがっているというありさま。最近の日本人は大きくなったもんだと旧日本兵と比べられても困ってしまいますし、日本人というだけでこんなに珍しがられるのは始めてでした。

そんな変わった歓迎を受けるような辺境の地で、原住民の家に泊まっていたときの事。夕食をごちそうになっていると、前歯がふにゃっと変な感じがしました。ん~!?なんだと思いつつ食事を続けていると、前歯の差し歯の片方がポロッと取れてしまいました。うっ、取れてしまった・・・・。とうとう一番危惧していた事態が発生してしまいました。これは非常にまずい。本当にまずいぞ。今までの楽しい食事から一転して、顔が青ざめてしまいました。とりあえず自分ではめてみるものの、うまくはまりません。そりゃ歯医者であんなに念入りに付けた差し歯だもんな。っていうか、こんなに簡単に取れていいものか?差し歯って。

line

このまま旅を続けられるのだろうか・・・。深刻な問題が頭をよぎりました。幸いな事というか、とりあえず今のところ差し歯が抜けた事によって歯が痛む事はなく、むき出しとなった歯は熱いもの、冷たいものを気を付けていれば気になりませんでした。だから今すぐ歯医者へ行かなければといった緊急事態ではないので、しばらくはこのままの状態で我慢できそうな感じです。

しかし、このままずっというわけにはいきません。差し歯を付ける前に前歯が虫歯になっては、シャレにならないからです。もしそうなったら・・・、今までの経験上、恐らく厄介極まる事態が起こると推測されます。何にせよ早めに歯医者に行っておくに越したことはないな。しかし、こんなジャングルの真ん中にちゃんとした歯医者がある訳が、・・・ないよな。今できることといえば、今まで以上にちゃんと歯を磨く事。そして、差し歯を厳重に保管しておく事。なんせ2本で17万もする高価なもの。無駄にはしたくありません。素人なりに考えるならこの抜けた歯を再利用するのが時間もお金も手間もかからない気がします。

line

といったことで、今後の予定を少し変更して、早急にジャングルの奥地から抜け出し、差し歯をつける事のできる歯医者がいる町へ行く事にしました。どこの歯医者へ行こうか。まず現在いるカリマンタン島では無理っぽそうだ。となると、ジャワ島にあるインドネシアの首都ジャカルタが真っ先に浮かびました。ジャカルタならきっといい歯医者もあるだろう。実のところカメラも壊してしまったので、その修理もしなければなりませんでした。

しかしジャカルタは治安が最高に悪い町。私の計画では寄らない事になっていました。君子危うきに近づかず。旅人は危険地域に踏み入れないに越した事はありません。しかし事態が事態だけに、そうも言っていられません。ジャカルタへ行こう。そう決めかけていたのですが、出会うインドネシア人の全てがジャカルタは危ないと口をそろえて助言するので、やはり回避することにしました。これ以上のトラブルに巻き込まれてはたまらないし、トラブルが重なると弱気になってしまうものです。

line

ではどうしたものか。思い切ってタイのバンコクまで戻るか。インドネシア脱出計画も考えましたが、今インドネシアを抜け出したら、もう二度と来る機会はなさそうです。せっかく言葉を覚えたので、もう少しインドネシアを旅行したい。どうしよう。次に浮かんだのがバリ島のデンパサールでした。バリ島といえば世界的に有名なリゾート地。インドネシアの中では物価水準も高いし、治安も比較的いい事で知られています。

ここならいい歯医者もあるかもしれない。いや、きっとあるはずだ。それにリゾート地だったら自分も骨休みできるしな。日本出国時はバリ島なんて女々しい場所になんか行くもんかと思っていたのですが、色々とトラブルが山積みの今、これはいい機会だと思い直したのでした。

カリマンタン島から船とバスを乗り継ぎ、57時間かけてバリ島にやってきました。歯の為にこんな強行軍を強いられるとは、やっぱり自分は歯に関しての運がないようです。ふらふらになりながらバリ島に到着し、ようやく宿のベットに落ち着い時にしみじみと思ってしまいました。そして翌朝、真っ先にやった事は、観光案内所に行き、いい歯医者とカメラの修理のできる店を教えてもらう事でした。

観光情報よりも歯医者やカメラ屋の紹介をしろっている旅行者も少ないようで、観光案内所のお姉さんも少々困惑気味。係りのお姉さんは親切に色々と資料を調べてくれ、外国人が行っても大丈夫そうな歯医者と、恐らくカメラを修理してくれるだろうと思われる店を教えてくれました。「タリマカシ」(インドネシア語でありがとうの意)と言うと、係りのお姉さんはにっこり。私はうっとり。ちょっとのぼせた頭で観光案内所を後にしました。

line

一回宿に戻り、お金や辞書を準備して、さっそく歯医者へ向かうことにしました。トラブルは早急に解決するにかぎります。教えられた住所を調べて行ってみると、そこにあるのは小さな歯医者でした。観光案内所の人はなんでこんなちっぽけな歯医者を紹介してくれたんだろう。どうせならもっと近代的大病院がよかったのに・・・。ちょっと疑問になりながら入ろうとすると、真昼間だというのに入り口が閉まっていました。

もしかして今日は定休日。でも今日は平日だよな。入り口の横に掲げられていた看板を見てビックリ。なんと営業は午後6時から。どうなってるんだ。ここの歯医者は夜行性の医者がやってるの?日々安宿の壁を張っているヤモリの姿が頭をよぎり、なんか気味が悪くなってきました。まあいいや。夕方来よう。しかし変な歯医者だ。もしかしたら吸血鬼ドラキュラ伯爵かもしれんな。血を吸われないように気をつけなければ。

line

ちょっと憮然としながら歯医者を後にして、カメラ屋に向かう事にしました。歩きながら通りにある歯医者の看板を注意して見ると、そこに書かれている営業時間は全て夕方からの営業となっていました。面白い事に、ここでは歯医者と限らず医者は夕方からの営業が多いみたいです。変な土地柄だ。みんな昼間は何をやっているのだろうか。観光ガイドでもやっているのかな?

あれこれと考えながら歩いていると、カメラ屋に到着。こちらも予想に反して小さなカメラ屋でした。ここで直るのか?店内に入って尋ねると、案の定ジャカルタに送らなければならないので、修理には恐ろしく時間がかかり、恐らく最低一ヶ月はかかるとの事。当てのない旅をしているとはいえ、さすがにそんなに待っていられない。カメラの修理は諦めることにしました。

line

昼間はのんびりと過ごし、夕方再び歯医者へ向かいました。今度は入り口の扉が開かれ、患者らしき人が何人かいます。ちゃんと営業しているようだ。恐る恐る中に入り、受付の人に「歯が痛い」と歯を指差しながら言うと、「歯医者は二階だよ」と笑いながら言われてしまいました。どうやら一階は他の科の病院だったようです。なんだか恥をかいてしまったなと横の階段を上っていきましたが、二階は一転して薄暗く、不気味な雰囲気でした。そして廊下の隅には簡易テーブルが置いてあり、そこに一人のおっさんが座っていました。

このおっさんが先生なのかな?うさんくさいぞ。もしかしたらやっぱりドラキュラか。それに他に患者が全くいないぞ。というか、流行っている雰囲気がしません。大丈夫なのかな?急に心配になってきました。とりあえず「歯を見てくれ」と覚えたてのインドネシア語で言ってみると、簡単に通じ、台帳に名前を書かされました。そして一部屋しかない診察室に通されました。そこはまるでマンションの一室。ドアを閉めた瞬間、このおっさんは吸血鬼に変身するかも。十字架を持って来ればよかった・・・。

line

しかし中に入ってビックリ。奥の部屋から出てきたのは白衣を着た若い女の先生でした。あれれれ、このおっさんが先生ではなかったのか。うむ、ちょっとやる気が出てきました。話を聞くと、日本に短期間留学していた事もあるらしい。日本の話題が多いと、ちょっと親しみやすく、久しく日本人に会っていない私としてはうれしい限り。女医さんも久しぶりの日本人患者らしく、向こうもうれしいようでした。おかげで会話は日本語とインドネシア語、英語の三カ国語が混じったもの。それで観光案内所の人は、ここの歯医者を紹介したのかな。ちょっと疑問が晴れました。

いよいよ診察開始。とうとう海外の歯医者にもデビューしてしまいました。この歯医者には、日本でよく見かける歯医者専用の診察椅子は一台しかありませんでした。あんまり流行っている感じがしないから一台で十分なのかな。日本では診察イスが何台も並んでいるような歯医者に通っているので、一台しかないと妙に不安になってしまいます。いやこの近代的な診察椅子があるだけましなのかもしれない。なるべくいいように考えよう。診察器具もざっと見渡す限りそれなりのものが揃っている感じがします。そういった意味ではちょっと安心しました。ペンチとドリルだけだったら間違いなく逃げ出していたでしょう。

line

お決まりの「どうしたの?」の問いに、まずは石を噛んで欠けてしまった奥歯を指差し、虫歯になりかけているから治療してくれと伝えました。そして本題、今までへその緒のように大切にしまっていた差し歯を取り出し、差し歯の刺さっていない前歯とあわせて見せました。相手もプロ。言葉で説明するよりも早いはず。日本に留学していたぐらいだしな。どうだセラミック製だぜ。保険がきかないから高いんだぜ。

ちょっと得意げに渡したつもりだったのですが、女医さんは無反応。にこりともしません。この程度では女医さんのハートは奪えないようでした。やっぱ時代はチタン合金か純金の差し歯なのかな。ちょっと敗北感を味わう事に。もちろん女医さんは私が何の為の治療に来たのかはちゃんと理解してくれました。

line

まずは奥歯の欠けた部分の治療から始まりました。口をあけて麻酔の注射を待っていたのですが、用意されたのはドリルでした。おいっ、麻酔なしで削るのかよ。口は開けたままなので、言葉にできない。目で何とかしてくれと訴えるものの、まな板の鯉状態。女医さんは容赦なくドリルで歯を削り始めました。うっ、ぎゃ~。痛いぞ。でもここで泣いていたら日本男児の恥。日本人は弱虫だなんて言われては、風の旅人の名が泣く。それにインドネシア人が耐えれるものなら、私も我慢してみせるぞ。

しばらく耐えていましたが、痛いものは痛い。いつしか涙目になっていました。もうそろそろ限界。そう感じた時に、ようやく女医さんが「フィニッシュ」と告げ、ドリルでの治療が終わりました。ふぅ~。たまらない。インドネシアでは麻酔なしでの治療が普通なのだろうか?これではまるで拷問だ。虫歯になった罰というのだろうか。そうだとしたら日本よりも厳しい罰だな。しみじみ感じました。

line

奥歯に詰め物をした後は、いよいよ差し歯の治療。今度は「麻酔は打つ?」との質問。おいっ!麻酔があるんだった奥歯の治療のときも使ってくれよ。まったくどうなってるんだ。少々腹が立ってきました。でもここはインドネシアだ。インドネシアのやり方があるに違いない。ここは我慢我慢。とりあえずこれ以上痛いのは勘弁。それにどれだけ痛いのかも想像できないし、どんな治療をされるのかも分からない。すぐに「OK」と頷きました。その返事を待って、注射針が用意がされました。注射針自体は日本のと同じ。使い捨てタイプだ。安心して口を大きく開けました。

日本では歯茎の付け根に打たれて痛い思いをしたのですが、ここではそういう事はなく、普通に歯と歯茎の間付近に麻酔を打たれました。そして麻酔が効いたのを確認して、前歯の掃除といった感じで何か液体を塗り付けられました。そして何か接着剤みたいなものを付けて、いよいよ差し歯を刺し始めました。しかし、すんなりとはまりません。すると無理矢理といった感じで差し歯を押し込んできました。ぐぅ~わぁ~。いきなりの展開にうめく私。差し歯ってそんなに力を入れて付けるものか。これでもかといった感じで力任せに押し込んでいました。

line

日本で付けた時は素直に入ったぞ。あまりの不手際に、こっちも不安になってきます。その不安を駄目押ししたのが、「この歯は本当にここに刺さっていたものか?」との質問でした。これには流石に青ざめました。おいっ大丈夫か。えらいところに来てしまったようです。「ちゃんと刺さっていた。間違いない」と私が言うと、女医さんは疑うような目つきで「本当に?」と言ってきました。「本当だよ」とちょっと腹立ち気味に言うと、さっき受付にいたおっさんを呼んできました。

やっぱりこのおっさんがボスなんだ。いよいよ真打の登場。助かった。救世主の登場に胸をなでおろしました。女医さんとおっさんは打ち合わせを終えて、再び治療開始しました。さっきはドラキュラなんて言って悪かった。頼むからちゃんと差し歯をはめて下さい。お願いします。そういう期待でおっさんの登場を歓迎していたのですが、無情にも展開は私の想像を裏切りました。おっさんがやったのは、女医さんと協力して更に力ずくで差し歯を押し込む事だったからです。

今度は二人がかりなので、さっきよりも強烈。一人が駄目なら二人でといった考え方なのだろう。うぐぅ~~。あごが外れる~~。失望感一杯でもう言葉にもなりません。しばらく耐えていると診察が終わりました。正確には終わったというより諦めたといった感じ。前歯は確かに刺さってはいるものの、なんか奇妙な感触。かみ合わせも悪い。明らかにちゃんとはまっていません。誰がどうみても斜めだぞ。どうなってるんだ。 そういえば日本で差し歯をはめるときに、麻酔は歯茎が腫れるので、差し歯をはめるときにはしないとか言っていたような気がする・・・。今更思い出しても遅い。というか、そういう事はこの世界では常識ではないのだろうか。

line

インドネシアで治そうとした事が間違いだったのかもしれない。もうここでこれ以上治療するのは無駄な事だと諦めました。斜めとはいえ、とりあえず刺さっているからいいか。刺さっていないよりはいいはず。いつものようにプラス志向に考えることにしました。女医さんは心配そうに「大丈夫か?」と聞いてきました。「あ~大丈夫」と応えると、安心したような顔つきになりました。きっとここではこれが精一杯なんだ。あんたは悪くないよ。そういった気分になってきました。

しかし治療費を払う段階になって再び失望感を味わうことに。日本で考えると安いには安いのですが、こっちの物価で考えると明らかに高い金額を言ってきたからです。ちょっとびっくりして、もう一度値段を聞きなおすと、女医さんの目が泳いでいます。日本にいたことがあるから、日本人が金持ってるのは知ってるよな。吹っかけてきやがったな。ろくな治療をしていないくせに。再び腹が立ってきました。

しかし日本の感覚でいうと、歯医者で値切るのは変な感じ。インドネシアではどうなのだろうか?どうしたもんかとちょっと迷ったのですが、インドネシアでの歯医者の適正価格なんてものが分からない以上、いくら値切っていいのか分かりません。もしかして本当にこの値段が適正価格なのかもしれないし、或いは観光客用の適正価格なのかな。まあいいや。失望感一杯でどうでもいいといった感じ。日本的に言い値を払って歯医者を後にしました。

line

宿へ帰りながら違和感のある前歯を強く噛み合わせていました。しばらくやっていると「ぐきっ」と小さな音がして前歯がより奥まで刺さり、さっきまでの違和感がなくなりました。それでもまだ斜めになっているようです。サシバが斜めに付いていては、差し歯の意味がないではないか。まったく藪医者め。カメラは直らないし、差し歯は斜めに付けられるし、バリ島に来るのではなかったかな。暗い足取りとなっていました。

しばらく歩いていると、「しょうがないではないか。ここはインドネシアなんだから。」と心の声が聞こえてきました。そうだよな。ないものは諦める。できないものに期待はしない。ここはそういうところだ。日本と同じものを期待する方がおかしいではないか。段々と東南アジアのおおらかな風土が自分の中に染み付き始めているのに気が付きました。まあいいではないか。宿に着く頃には、そんな気分になっていました。ただ、近いうちに再び歯医者へ行くはめになりそうなのが、喉に刺さった小骨のような感じでした。

~~~ 第6章 果ては東南アジア  完 ~~~

「第7章 さらには中東で」につづく →

・風の結晶 INDEXに戻る↑

<ぶちぶち歯医者日記 第6章 果ては東南アジア 2002年4月初稿 - 2015年9月改訂>