風の足跡 ~風の旅人旅行記集~
~ 海外短編旅行記 第2話 ~

カイセリ商人の洗礼

*** ページの目次 ***

~~~ §1、プロローグ ~~~

<1996年7月>
トルコ地図
トルコ地図

まだ完全に夜が明けきらぬ朝6時。
トラブゾンからの夜行バスはカイセリのオトガル(バスターミナル)に到着しました。
今回の旅行はトラブゾンからエルズルム、ワン湖とトルコの東に向かうはずでしたが、現在トルコ東部ではクルド人過激派によるテロが頻発しているらしく、「今はあまり治安が良くないからわざわざ行かないほうが・・・」とチケット売り場の人や仲良くなったトルコ人の人が注意してくれました。
本当なのだろうか。一体どの程度危険なのだろうか。
まさか旅行者が襲われるなんて事はないよね。
全然大丈夫だよと言う人もいたしな。
色々と考えるものの、全く状況が分かりません。
もしかしたら私が頼りなく見えるだけの事なのだろうか。

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この旅行は私にとって記念すべき初めての一人旅でした。
しかもまだ出国してから一週間と経っていないので、傍から見れば旅の初心者というのは一目瞭然。
それでみんなが注意してくれているのかもしれません。
それにしても初心者というものは不便なもので、どこまでが安全で、どこからが危険だという事が全く想像できません。
だから行くべきか、やめておくべきかの判断をする事ができないのです。
そんな状態なので、危ないと2回以上言われれば行かないに越したことはありません。
それにあまり無理をしたくなかったし、する勇気も持ち合わせていませんでした。
今回はやめておこう。情報がなさ過ぎるってことで・・・。

こういう成り行きでトルコ一周の旅程を変更して、トラブゾンから一気に南下し、奇岩で有名なカッパドキアに行くことにしました。
しかし、カッパドキアまでのバスのチケットを買おうとすると、直通はなく、カイセリ経由でならあるとの事。
他のバス会社を当たれば直通があるかもしれないけど、色々と親切に教えてくれる販売員の人柄に好感が持てたので、「カイセリ経由でも問題ない。一人分のチケットをください」と、カイセリ経由でカッパドキアに向かう事にしました。

~~~ §2、エルジェス山との出会い ~~~

バスを降りて朝の新鮮な空気を吸うと、今まで窮屈に座っていた身体が目を覚ましました。
宿代と時間を節約する為、トルコでは夜行バスでの道中が続いていました。
しかし実際のところ、時間やお金は節約できても疲労は蓄積されていきます。
あまり多用はするものではないなと、きしむ背骨を鳴らしながら思いました。
バス会社の係りの人に聞くと、「カッパドキアのギュレメ村行きのバスは7時から1時間おきに出ているから、都合のいいのに乗ればいい。」との事。

時計を見ると6時10分でした。次のバスまでは後50分もあります。
その間このオトガルでじっとしているのは退屈だし、せっかくだから、ちょっと町に繰り出してみるか。
朝食もどっかで食べたいし。それに7時といわず8時のバスでもいいわけだし。
そう思ったのは「カイセリ」というなんか妙に響きのいい名前に惹かれたせいかもしれません。
バス会社のカウンターの人に荷物を預かってもらい、早速町の中心に向かう事にしました。

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カイセリの町を歩く事は全く予定にしていなかったので、予備知識は全くなく、右も左も分からない状態でした。
ガイドブックの地図だけが頼りです。
地図を見る限りでは中心までそんなに距離がないみたいなので、わざわざバスなどに乗らなくてもいいな。
散歩がてら歩いて行く事にしました。

そしてオトガルを出発してから5分も経たないうちに素晴らしい出会いがありました。
オトガルからは建物が邪魔をしていて見えなかったのですが、朝靄の中にとても美しい山が聳え立っていることに気が付いたのです。
これが私とエルジェス山との出会いでした。
その時は名前さえも知らなかったのですが、一目見た瞬間この山に魅せられてしまいました。
もっとよく見たい。
私は磁石に引き寄せられるように町の中心への道を右折し、山の方向へ歩いていました。

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閑散とした大通りとエルジェス山
閑散とした大通りとエルジェス山

エルジェス山を見失わないように気を付けながら、早朝の静まりかえった住宅街を一人歩き続けました。
静まり返った異国の住宅街っていうのはとても不気味に感じるものです。
日常の姿が分からないから、実は誰も住んでいないのではなどと怪奇映画みたいな事を想像してしまうからです。
この時間、ここの人達は寝ているのだろうか?
それとも起きて出勤の準備をしているのだろうか?
時たま煙突から煙が出ている家を見るとほっとした気分になりました。

途中、牛乳配達のおじさんとすれ違っただけで孤独な旅路が続きました。
そして大通りを二本横切ると、目の前に小高い丘が見えてきました。
とりあえずあの丘の上に登って写真を撮ろう。見晴らしがよさそうだ。
今までは何となく山に向かって歩いていたのですが、ちゃんと目的が定まると、精神的にも歩く足にも活が入ってきました。

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そして通りから丘の方に向かっているだろう緩やかな細い坂道に入っていきました。
こんな細い道を歩いていたら後で戻れなくなるのでは。
何かトラブルに巻き込まれるのでは。
初めての海外旅行なので何かと心配。
ちょっとためらいましたが、山を見たいという好奇心の方が勝りました。
よしっ、突撃だ。一度丘まで行くと決めたなら実行しなければ男ではないぞ。
気合を入れて歩き出したものの、すぐに民家の犬に吠えられ、再び不安な心境に戻ってしまいました。
何も悪い事をしていなくても地元の犬に吠えられると、何か悪い事をしているような気分になってしまいます。
自然と忍び足になっていました。

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小高い丘とモスク
小高い丘とモスク

更に歩くと、目の前にモスクが現れ、その横には丘へ通じていると思われる砂利道がありました。
どう見ても観光客が通る道ではなさそうだ。
しかしここまで来たなら進むのみ。
ここで戻ったら後で後悔するだけだ。
覚悟を決め、歩きにくい砂利の坂道を駆け上がりました。
そしてモスクから100mぐらい登ると、今度は何かの施設が道の脇にありました。
こんな辺鄙な場所にありながら妙に近代的な建物で、おまけに塀で囲まれています。
もしかして、これは軍の施設か何かではないか。
そして、この先に行くと軍の施設があり、スパイ容疑で捕まるのではないか。
スパイ映画のような妄想がよぎり不安になってきました。

せめてこの不安を分かち合える相棒がいれば。
そう思うものの、あいにくと一人旅。ここは自分の為に自分が勇気を振り絞るしかありません。
とはいえ、できるだけ建物と視線を合わせないようにして、忍び足でその建物の前を通りすぎました。
まるで建物なんか見えませんでしたと言い訳できるように・・・。
最初の一人旅というものは勝手がわからないから、ガイドブックに書かれていないような事を行う時には本当に不安になるものです。

~~~ §3、感動の風景 ~~~

しばらく砂利道を歩いてみると、道は丘から逸れ始めました。
どうやらこの道は最初に見た丘ではなく、さらに奥にある丘へと続いているようでした。
道なき道をよじ登って最初の丘に登るのもいいけど、ここは奥の丘に進むほうが懸命のようだ。
その方がよく見えるに違いない。
先ほどの施設を通過した時点で、もう引き返すといった迷いはありませんでした。
この先には何が待っているのだろう。
何が待っているかわからない冒険心みたいなものがムラムラと心の中に広がっていました。

朝もやの中のカイセリ市街
朝もやの中のカイセリ市街
エルジェス山
エルジェス山

そしてモスクから歩くこと20分、少し開けた場所に出ました。
後ろを振り返るとカイセリの街が朝靄に包まれていてなんとも言えない雰囲気を醸し出していました。
結構登ったんだな。
だらだらとした坂道だったのであまり実感はなかったけど、それなりに高い場所まで来ていたようです。
更に歩くと、 完全に開けた場所にでました。
今までは丘の影に隠れて見えなかったエルジェス山が辺りの風景と一体となって私の前に現れました。

なんて素晴らしい景色だろう。
あまりの感動に呆然。
ここはトルコなのか。
トルコなのになぜか頭の中にはハイジの主題歌が流れている状態でした。
ヨーゼフが走り回り、ハイジがブランコで・・・といったスイスの山の風景が思い浮かんできます。
でもここはトルコなんだな。
トルコに来てまだ1週間ちょっとしか経っていないけど、トルコに来て良かったと心から思えるほど素晴らしい景色だと感じました。

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幻想的な風景
幻想的な風景
朽ちた遺構
朽ちた遺構

周りを見渡しても人っ子一人いなく、私はこの風景を自分一人で独占しているという優越感に浸っていました。
空気が澄んでいるので景色がはっきりと見えます。
ふと左の方に目をやると、二つの小高い丘がまさに太陽を浴びようとしているところでした。
なかなか幻想的な景色です。

周囲を見渡すと、ちょっと先の丘の上には朽ちかけた遺跡のようなものが幾つかありました。
あれはなんだろう。
眺めのいい場所にあることから考えると、かつてはカイセリ城の見張り小屋として使われていたのだろうか。
それが朽ちてあんな状態のままほったらかしになっているのかもしれない。
近くまで行ってみようかな。
見張り小屋だとしたらここよりもずっと眺めがいいはずだ。
そう思ったものの、今いる場所からはちょっと距離があり、それに斜面を登るのがしんどそうなのでやめました。

それにしてもすがすがしいな。
あまりにすがすがしいので、大声で叫んでみました。
急に逆立ちがしたくなり逆立ちもしてみました。
本当に感動すると、じっとしていられないものです。景
色に感動して一人ではしゃぎ回っている私がいました。

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エルジェス山と私
エルジェス山と私

ここからでもこんなにいい眺めなら、山の麓まで行けばさぞかし素晴らしい眺めなんだろうな。
更なる欲が出てきました。
ここから見る限りでは相当な距離があります。
麓までとはいかないまでも、もうちょっと近づいてみるか。
ずっと平坦な道のりみたいだし。
気分を良くしていた私は歩き始めました。
が、30m歩いたところで現実に戻りました。
さすがにそれは無謀と言うものだ。
行くならカイセリの町に戻って、バスなどで麓まで行ったほうがよさそうだ。
結局今いる場所付近をうろうろし、アングルを変えながら何枚か写真を撮ったり、自分の映っている写真がないので地面の少し高い位置にカメラを置いてタイマーで撮影をしたりしました。

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気がつくと、太陽は大分高い位置にありました。
自分で切り開いて見つけた素晴らしい風景なので、ちょっと名残惜しい気持ちもありましたが、そろそろこの場を後にする事にしました。
行きはビクビクしながら歩いた道を戻ると、今は太陽の光で明るく照らされていました。
なんだ普通の散歩道ではないか。
いや、そう感じるのは気分が充実しているせいなのかもしれません。
さすがに施設の前を通る時は少し緊張しました。

しかし行きよりも精神的に余裕があったので、この建物を観察してみると、軍事施設にしてはお粗末な造りをしています。
もしそうだとしても少なくとも警備の人が立っているはず。
きっと水道の施設か電力関係の施設ではなかろうか。
なんだ、とんだ取り越し苦労だったな。苦笑いしてしまいました。
しかしながらこの建物のおかげで、スパイスが効いた冒険らしいスリルをが味わえ、その事によって山を見た時の感動が倍増したのも事実です。

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朝の町とエルジェス山
朝の町とエルジェス山

モスクの横を通り、またもや犬に吠えられながら、大通りに出ました。
後ろを振り返ると、エルジェス山がビルの間に見えました。
先ほどまでの迫力はありませんが、とてもきれいに見えます。
それにしてもいい天気だ。
朝の靄は晴れて絶好の青空が広がっていました。
まるで私の心の中を象徴しているかのような天気です。
早起きは三文の得。今日1日が素晴らしいものに思えてきました。
この後は一体何が待ちうけているのだろう。なんだかワクワクしてきました。
カイセリか。よい響きの町だ。きっといい事があるに違いない。
そんな事を考えながら町の中心へと向かいました。

~~~ §4、市内観光 ~~~

時々エルジェス山を振り返りながら、カイセリ市の中心に向かいました。
そういえばお腹がすいたな。朝早くからいい運動をしたので、まずは腹ごしらえから始めよう。
繁華街に入ると、すぐに朝食と休憩を兼ねて食堂に入りました。
そしてパンとチャイ(紅茶)を頼み、これからの行動予定を立て始めました。
カイセリからカッパドキアまでは2時間程度。
夕方前に着ければいいから、昼過ぎまでカイセリにいても何ら問題ないではないか。

正直、私はカイセリに惹かれてしまいました。
このまま素通りするのはもったいない。
それに中途半端な時間にカッパドキアに着いて、時間をもて遊ぶ事になるのだったら、ここで有意義に時間を使って観光をした方がいい。
よしそうしよう。今日は予定変更してカイセリの日という事にしようではないか。

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まずは町の中心から少し離れたカイセリ考古学博物館に行ってみる事にしました。
ガイドブックには、とても小さくこじんまりとした博物館で、付近で出土された小さい子供のミイラを展示してあると書かれていました。
小さい博物館という記述だけなら触手が動かなかったのですが、ミイラという部分に惹かれてしまいました。
ミイラといえば、人間の死体。されどもミイラ。なぜだか不思議な魅力があります。
怖いもの見たさなのかな。日本ではまず見られないし。

キュンベットとエルジェス山
キュンベットとエルジェス山

そんな事を考えながら歩いていると、道の真ん中に変わった建造物を発見。
短い鉛筆というか、ロケットのような形というか、とにかく不思議な形をしていました。
ガイドブックを見ると、ドネル・キュンベットというものらしい。
霊廟で、セルジュークトルコ朝の象徴的な建物だとか。
このままロケットのように飛んでいっても絵になるなと思えるほどメルヘンチックなお墓です。
きっと弔われている人もさぞ寝心地がいいのでは。
せっかくだからとエルジェス山と一緒に写真を撮っておきました。

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入場チケット
カイセリ考古学博物館内
入場チケットと
カイセリ考古学博物館内

博物館に到着してみると、小さいながらこぎれいな建物でした。
入り口を入るとすぐ受付兼事務室があり、覗くとおばさんが一人で書類を書いていました。
めったに客が来ないのだろうか。
それとも開館して間もないせいなのか、入り口に気を配る感じもなく仕事をしていました。
仕方ないので、ベルを鳴らしておばさんを呼び、学生チケットを下さいと頼みました。
昨日まで滞在していたトラブゾンでは「学生です。学生料金はありますか?」と尋ねたら、入場料はいいよとただで見学できたといういい思い出があります。
ここでもそういうことにならないかなと期待して言ってみたのですが、そうそう都合よくはいきませんでした。
ここではちゃんと学生料金があるようで、学生用チケットというものを買う事になったのですが、お金を払うと4枚ものチケットを渡されました。

ん???どう見ても一人分の料金しか払っていないのに・・・なぜ?
よく見るとチケットの色が微妙に違います。
別の場所の入場券も兼ねている共通券なのかな?
私の表情を読みとってか、おばさんが「ノープロブレム(問題無い)」と言い、続けて「トルコはインフレの為に物価がすぐ上がり、入場料も上がる。そして入場料が上がるということは入場券に記載されている値段も変えなければならなく、その分を足していたらこうなったのよ。」と教えてくれました。
今あるチケットがなくなれば新しくなるそうですが、インフレが止まらない限り、またいたちごっこになりそうです。
有名な遺跡などでは来客も多く、チケットの回転も速いのであまりこういうことはないのでしょうが、小さい博物館ではこうせざるを得ないようです。
この小さな考古学博物館では、考古学よりも経済、とりわけインフレによる弊害について学んだ気がしました。

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カイセリ城外
カイセリ城中
カイセリ城の外と中

博物館を出た後はカイセリのシンボル的存在のカイセリ城を見に行きました。
城といえば、戦争や戦いといった荒々しいイメージを自然と思い浮かべてしまいます。
そういった心構えで訪れると、確かに外観は立派な城でした。
しかし中に入ってみると、ん!なんじゃこれは!とがっかりしてしまいました。
そこは青空市場になっていたからです。

これではほのぼのとしすぎてオスマントルコなどの荒々しい戦いのイメージが壊れてしまいます。
城内を回っても日用品とか土産物屋ばかりだし、城壁には上がれないし、全く期待はずれでした。
中に入れなかったほうが、想像力をかき立てられてよかったな。
正直そういった感想でした。
城を見学した後は、ぶらぶらと町を歩きました。
歩いていると、この街の至る所から綺麗にエルジェス山を見る事が出きました。
なんて素晴らしい風景をもった町なんだろう。
ここに住みたいなと思えるような町だと思いました。

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飲み物を飲むついでに簡単に食事をした後、時計を見ると昼過ぎになっていました。
そろそろバスターミナルに向かおうかな。
そうだ。その前に電話局に行き、日本の我が家まで電話しておこう。
日本を出国してからまだ一度も連絡をしていませんでした。
そろそろ連絡をしておかないと心配するぞ。
時差があるので、昼すぎから夕方にかけなければつながりません。
かといって、この時間は一番活発に動いている時間なので、なかなか電話局に行けないのが実際です。
ちょうどいい機会だ。すぐ近くに電話局があるし。
と言う事で、多分日本で心配していると思われる両親に電話をする事にしました。

~~~ §5、じゅうたん工場へ ~~~

電話局があるメイン通り
電話局があるメイン通り

電話局で両親に無事の報告を終えると、バスターミナルに向かってぶらぶらと歩き始める事にしました。
しかし最初の交差点で信号を待っていると、一人のおっさんが声をかけてきました。
簡単な挨拶の後、「この奥に古い絨毯工場があるのを知っているかい。有名な所だから見たほうがいいよ。」と教えてくれました。
まだ昼過ぎ。急いでバスターミナルに行く必要もないな。せっかくだから寄ってみるか。
「ありがとう。行ってみるよ。さようなら」と言って、一人で歩いていこうとすると、そのおじさんは慌てて追いかけてきました。
そして、「狭くて迷子になるから、私が案内しよう。金はいいから。」と言ってきました。

ははぁ~ん。こいつは怪しいな。
私の頭の中で「絨毯工場+無料のガイド=絨毯屋の客引き」という単純明快な公式が描かれ、確定マークの危険信号が点滅しました。
しかし、今日は朝から気分がいい。
何をやってもうまくいきそうな感じがしました。
それにこのおっさんはそんなに悪そうな雰囲気はしないし、だまされた振りをして行ってみるか。
トルコといえば絨毯。その絨毯工場を見る事ができるのはいい経験になるしな。
私の心は決まりました。

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おじさんと他愛のない会話をしながら歩きました。
そして連れて来られたのは、先ほど訪れたカイセリ城のすぐ横にある古めかしい建物でした。
確かに歴史を感じる建物です。まんざらこのおっさんの言っている事は嘘ではないな。
建物の入り口付近は商店が何軒も並んでいました。
おっさんはその店の横をずんずんと奥へ進んでいきました。
しかし10mもすると店はなくなり、辺りは薄暗くなってきました。
さすがにこれはやばいかな。
人目のある場所でなら何とかする自信は少しあるものの、人気のない場所で拳銃を突きつけられたり、大勢に囲まれてはたまりません。

どうするか。ここは安全に引き返すのが得策か。
躊躇していると歩くペースも自然と下がってしまいます。
おっさんとの間隔が少し開きました。今なら逃げるのは簡単だ。
・・・ん!逃げるのが簡単なら、この先に危険が少ないとも言えるよな・・・。
もし強盗などを計画しているなら私が途中で逃げないように気を使うはずだし・・・。
そう考えると少し気が楽になってきました。
それに辺りには羊毛が散乱し始めました。隅っこには袋に入れられた羊毛が積まれています。
少なくとも絨毯工場というのは嘘ではなさそうだ。

その時、角から羊毛の入った袋を担いだ子供が飛び出してきました。
私と目が合うと、笑顔で「ハロー」と声をかけてきました。
あまりにもとっさだったし、心の準備ができていなかったので、私は挨拶を返す事が出来ませんでした。
しかし、今の子供の笑顔からはこの先には身の危険はないと確信しました。
ここまできたら前に進むだけだ。朝のエルジェス山の時と同じだ。

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暗い路地を抜けた辺り
暗い路地を抜けた辺り

暗い路地を抜けると、大きな中庭に出ました。
しばらく暗い所にいたせいか、それとも緊張していたせいか太陽がとてもまぶしく感じました。
辺りを見渡すと、なかなかいかつい建物です。
古くから壊れずに残っているだけはあります。
働いている人も結構な数います。
どうやら本当に絨毯工場だ。
それも由緒ある大規模な絨毯工場にちがいない。
ホッとしながら周りを観察していると、先ほどのおっさんが建物の2階から手招きをしていました。
いつの間にあんなところに。階段を登り、おっさんの所へ行きました。
「どうしたんだ。遅かったじゃないか?」と聞いてきましたが、適当にごまかしておきました。

~~~ §6、カイセリ商人との対決 ~~~

絨毯工場の様子1
絨毯工場の様子
絨毯工場の様子2
働く少年達

おじさんは「こっち」と言って、沢山ある部屋の一つに入っていきました。
部屋の中に入ると、私よりも年下だろうと思われる少年が絨毯を縫っていました。
おじさんの話では彼らは修理をしているとの事。
そして、良い工場は修理できる人が多いんだとか熱心にしゃべっていました。
なるほどそういうものなのか。
そういう気もするけど、まるっきりの素人に向かってそんな講釈を言っても分かるはずもなく、ふむふむと適当にうなずいておきました。

幾つかの部屋を案内された後、絨毯と机しかない部屋に入っていきました。
予めこういう展開になると分かっていたので別段驚く事ではなかったのですが、おじさんはとうとう本性を現しました。
少年がチャイを持ってきた後、絨毯をひろげ始めました。
そしてこのデザインは何を表し、この種類のじゅうたんは何地方の独特の織り方、これはなになにと説明を始めました。

ふむふむと頷くものの、当然の事ながら絨毯の講義を始められてもさっぱりわかりません。
もちろんキリムと絨毯の違いぐらいはわかるけど、トルコ伝統のデザインの違いを教えられても役に立たないだろうし、それよりもどうやってこの講義を終わらせようか考えていました。
買うつもりはないので、区切りのいいところではっきりと「いらない」と言って退散しよう。
絨毯を買っても荷物になるだけだしと決めていました。

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しかし、相手はプロでした。
私の魂胆などとっくにお見通しといった感じで、直球勝負ではなく誘導尋問のような質問をしてきました。
「何色が好きだ?どんな柄が君の好みだ?」と、あれよあれよいう間に一枚の絨毯が目の前に広げられていました。
私自身これが欲しいと言ったつもりはないのですが、誘導尋問でこうなってしまいました。
そして「これは300ドルだ。」とおっさんは言ってきました。
どうみても300ドルは高いはず。高くても100ドルがいいとこかなと思えました。

私は「要らない。そろそろバスの時間が迫っているから。」と言うと、「最後のチャンスだ。あなたの最後の言い値をどうぞ。(ラーストプライス)」としつこく言ってきました。
このラーストプライスはなかなか厄介な代物です。
仮に私が100ドルと言えば、それで値段が折り合えば交渉成立となってしまいます。
もちろん元値がそれより高ければ向こうのほうが断ってくるのでしょうが。
私は「要らないから、ラーストプライスはない。」と繰り返すしかこの「ラーストプライス」攻撃をかわす方法が思い浮かびませんでした。

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絨毯工場の様子3
工場の中庭

意外に頑固な私の対応におじさんは力攻めでは駄目だと判断したようで、今度は搦め手からの攻撃で攻めてきました。
ちょっと神妙な顔つきになって「イスラムの国ではその日最初の交渉を成立させたら、お互いに良い1日になる。
だからどうしても買って欲しんだ。
ここは損を覚悟で200ドルで売ろう。」と握手を求めてきました。
ここで握手をしても交渉成立となってしまうのは目に見えています。
そういえば高校時代の担任の先生が、イスラムではこういう文化があるんだよと教えてくれたのを思い出しました。
変に知識があるといらぬ同情をしてしまいます。

しかしこれからの道中を考えると、かさばる絨毯は邪魔以外の何物でもありません。
これからも楽しい旅行を続ける為には同情は禁物だ。
私は首を振って「荷物になるからいらないよ。」と言いました。
これで諦めてくれるだろうと思ったのですが、甘かった。
「ノープロブレム(問題ない)。送ればいい。」と言ってきました。
私はすかさず、「お金がかかるからそこまでしていらない。」と言い、席を立とうとしました。
すると「待ってくれ」と言って、私をなだめ、ほら見てみろといって絨毯をたたみ始めました。
無理やりといった感じですが、かなり小さく折りたたまれてしまいました。
そこまでやるとは・・・。苦笑いをせざるを得ませんでした。

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私自身まだ旅慣れていないので、値段を下げるのはなんとか出来るものの、断るのが苦手でした。
いかにして断ればいいのだろうか?必死になって考えていました。
日本的に考えれば、「いらない」と言えば済む筈なのですが、何故かうまく言えません。
言えないというより、言っているのですが、うまく交わされてしまいます。
「私は学生だからお金を持っていない。」と言っても平然と構えていますし、現金を持っていないといえば、カードやトラベラーズチェックでかまわないと返ってきます。
ああ言えばこう言うといった感じでした。
もちろん単刀直入に「いらない」と言えば、平然と「いくらなら買う?」と言ってきます。
このエンドレスのような問答からどうやって抜ければいいんだ。
さすがに困り果ててしまいました。

そして根負けしてというか、やぶれかぶれで「50ドルだったら買う。それ以上は出さない」と言ってしまいました。
おじさんは「それは出来ない。学生料金で180ドルにしてやる。」と言ってきました。
そんな値段では買う気にならない。
笑いながら席を立とうとすると、すかさず「オーケーオーケー、170ドルでどうだ。」と握手を求めてきました。
今度こそと思って私はかまわず歩き出そうとした。
おじさんは慌てて私の前に行き、「ラーストプライス」と聞いてきました。
「だから50ドルって言ってるでしょ。」と言ってその場を去ろうとしました。
しかし、おじさんは握手をしてきて、「オーケー、あなたはラッキーだ。160ドルで売ろう。」と言ってきました。
私は首を横に振り「いらない」と言いました。
本当にしつこいが、それに付き合い続けているのが情けない。
交渉が下手なのがばればれです。

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素人のくせに頑固さは一流だ。
そう思ったのか、おじさんは私の意思が変らないのを悟って、またもや別の手段で攻めてきました。
本当に技が多彩というか、感心してしまいます。
「この絨毯は150ドルするものだ。それを100ドルで売ろう。私は50ドルの損。あなたも言い値の50ドルから50ドルの損。これで公平だ。今日の最初のお客さんだからどうしても交渉を成立させたいんだ。」ちょっと同情を求めるような表情で言ってきました。
なんだか演技がかっているし、こんな話どこかで聞いたことがあるぞ。
そうだ夕方やっているテレビの時代劇だ。て事は、トルコでも大岡越前のような話があるのか。
三方一両損ってなやつ。それとも大岡越前の話の方がパクリなのか。
あるいは日本の事を知り尽くしているのか、このおっさん。
まあどっちでもいい事だ。それより交渉を終わらせて脱出しなければ。

と思ったものの、なんだか疲れてきました。100ドルで本場のトルコ絨毯が買えるなら安い物ではないか。
買ってしまうか。いや、やっぱり高いような・・・。
でもこれで交渉が終わるし、お土産の絨毯も手に入る。万事解決ではないか。
悪魔のささやきが頭をよぎり、とうとう根負けしてしまいました。
そしてめでたく交渉成立となってしまいました。
恐るべしカイセリ商人というべきか、それとも私がだらしなかっただけなのか。
それにしてもなんて長い交渉だったのだろう。
物を買うのに今までこんなに真剣に且つ、長い交渉をしたことが今まであっただろうか。
何も考えずに値札の付いた物をレジに持っていってお金を払うといった習慣に慣れていた私にとって、今回が買い物という行為の難しさを実感した始めてのことでした。

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エルジェス山とミニバス乗り場
エルジェス山とミニバス乗り場

私はおじさんに見送られて、もと来た薄暗い通路を抜けて外に出ました。
やれやれ疲れたな。
そして荷物が増えてしまった。この絨毯どうしよう・・・。
次の町で郵便で送るしかないか・・・。
やれやれまた面倒な仕事が増えてしまったな。
でも、まあいいか。
絨毯工場とカイセリ商人の交渉術を見学できた事だし、それにお土産という形に残る物が手に入ったことだし。
うん。そうだな。よしっ、バスターミナルへ向かおう。

完全に満足のいく買い物ではなかったけど、何故かとてもすがすがしい気分でした。
恐らく50ドルぐらいのものだったに違いない。
いや、もしかしたら案外適正価格だったのかな。
いやいや、そんなはずはないか。相手はトルコでも有名なカイセリ商人だぞ。
でも、我ながらトルコでも有名なカイセリ商人とよく交渉したものだ。
これがイスラムでの交渉なんだな。いい勉強になった。
ぼられたとは思うけど、それ以上の充実感と貴重な経験を得られた気がしました。
そう思ってしまうのもカイセリ商人の魔力なのだろうか。
でもこの買い物で私自身一回り大きくなった気がしました。
いや、こうすがすがしく思えるのはきっとエルジェス山のおかげなのだろう。
もう一度エルジェス山の方を振りかえりました。

カイセリ商人の洗礼  ー 完 ー

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<海外短編旅行記 第2話 カイセリ商人の洗礼 1999年10月初稿 - 2015年10月改訂>